続・江戸の話 百十八


『守貞謾稿』女扮編、女性の髪形の話の続き。今回は笄(こうがい)の話題である。原義はともあれ、長い髪を結い固定する際に用いる棒のようなものである。
「我衣に笄のことを云て寛文の頃より鼈甲を用ふる人もあり髪は片髷也是は内室のみ下女は笄ぐる也はや正徳の頃は下女も鼈甲を用ふ」
とある。笄の材質について『我衣』を引き、17世紀中葉の寛文年間の頃から、貴人令室の中には鼈甲を用いる者もあり、髪形は片髷(片外)であった。片外は、笄を抜き去れば下げ髪にすぐに戻すことができる。18世紀正徳の頃には下女でも鼈甲を用いる者があったという。
「同書云寛文中云々伽羅油店を出す又曰婦人の櫛笄寛文迄は鯨也其後鼈甲の薄く黒きをゑり出し頭に銀杏或ははつれゆきなどの類を細工にせしを最上とす後鹿角を蘇方染にして朝日の櫛笄と云上ひん也云々是に櫛笄とありて簪を云ず」
とあり、寛文年間には未だ鯨の髭等を櫛笄に用いる事が主であったようである。鼈甲が用いられる様になると、イチョウ・はつれゆき(斑雪)の様な装飾が加えられるようになる。後には鹿の角を赤黒い蘇方(芳)染にして用いたと云う。
「女用訓蒙図彙曰笄曲は下髪せし奉公人など其勤を仕廻内々の局などに入りくつろぎ又は己がじヽ打寄時下髪は身持むづかしき故にくるくると廻して笄にて仮にして置たる也其さま面白とていつしか常の結ぶりに成たる也末の世には下髪せぬ際の人柄もなべて笄曲に結ぶ昔は遊女も下げ髪をしたりとかや云々」
とある。守貞は別書『女用訓蒙図彙』から、下髪(さげがみ)が本来であるにしても、仕事外でくつろぐ際等には下髪は不便であるので、笄に一時的にくるくると巻き付け、何時しかそれが常の髷の結い方となり、そうした経過とは無関係に、そもそも下髪をしない者も、笄髷を結ぶようになったとする説を引く。この事例は奉公人についてであるが、奉公人に限らず内室であっても、同様の経過はあり得よう。一部略すが、守貞は、
「或書云銀のかうがいをやうじにさしかへ云々 笄曲は既に昇平の初よりも有之歟而其形を詳にせず女房等勤仕の時の下げ髪を休暇及び臥床には笄を以てかりに頭上に曲げしより始るべし故に其形も定ざる歟種々随意なるも笄を以て曲る物を云歟其後漸く笄曲定形ありて下げしたじ片はづじ等に分る歟故に笄曲は下げ髪の婦の所為其後諸婦専結之江戸も用之安永ごろより丸曲となり京坂のみ古風を存する歟」
と考察を続けている。笄髷が既に江戸初期からあるものかと推測しているが、根拠不明である。「或書」がその頃の刊なのであろうか。詳らかではない。以下、初期の笄髷の形が詳しく伝えられていないのは、下髪を休暇・臥床時に笄に一時的に巻き付けたもので、形が定まっていなかったからではないか。形に拘わらず笄を用いた髷を笄髷と云ったのではないか。後に次第に笄髷の形が定ったのではないか。等々。守貞は、実に「歟」を五回も連ね、推測に推測を重ねている。推測であることを自覚し断定を避ける執筆態度には、尊重すべき点があろう。


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    続・江戸の話 百十七


     今回も『守貞謾稿』女扮編、女性の髪形の話。『女鏡秘伝』を引いての守貞の考察の続きである。前回、同書から「ひたいをするは誠に大じのものなり」云々という一文を紹介した。「ひたいのなり」即ち額の形は美醜上の一大関心である。当然ながら額を如何に装うかも関心事であった。
    「けはひの化粧之事 おしろひをぬりて其おしろいすこしものこり侍れば見ぐるしき物なり態々のこひとりてよしもとよりかほばかりにぬるべからずみヽのしたのどよりむねまでものこさずぬり給ふべしきは見へざるをかんとすくれぐれしろくのこれるはおとこたちの一しほきらいものわらひぐさとこヽろへべし 当時淡粧俗に云うすげせう或は素顔流行歟」
    とある。額は眉と髪の生え際の間。髪の生え際の化粧は、「ひたいのなり」に直結する。白粉に少しでも塗り残しがあれば見苦しいもので、顔ばかりに塗るのではなく、耳の下・のど・胸までも残さず塗り、際が見えないことが肝要である。云々。守貞はこの引用の後、当時の化粧は淡粧(薄化粧)や素顔が流行したものか、と推測している。
     さて、淡粧が薄化粧なら、厚化粧に相当するのが濃粧である。
    「今の江戸専ら淡粧也文化文政頃は濃粧也京坂は文化以前より今に至り濃粧也又御殿女中は今世皆濃粧也此事のみ御殿女中万治中に違ひ却て江戸坊間万治の風に復すに似たり同書に爪紅をうすくさすべしと云り 爪紅のこと何の時より始る歟繁雑故に文略す」
    とある。守貞の頃の江戸は淡粧であるが、19世紀初頭には濃粧、京都・大阪では、それ以前から守貞の頃まで濃粧、御殿女中は江戸・京坂の区別なく濃粧であったと言う。守貞は爪紅について、繁雑を理由として『女鏡秘伝』からの引用を行わない。ただし、女扮編に爪紅記事は既出である。本連載では106回で紹介している。関心のある方は参照されたい。


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      続・江戸の話 百十六


      今回も『守貞謾稿』女扮編。女性の髪形の話である。
      「万治二年刊本女鏡秘伝と云書に曰髪の結ひ様之事かみのゆひやうこれもまづはやりによる内の女のやうをみ給ふべしきをつけざればむさとするゆへにしなあしヽもとよりかみはくろくながきを本とすされ共あまりながすぎたるはすごきもの也人によりてきらふものなりまたすける人もおほしそれぞれにはかきわけがたし一すぢには申がたし人のやうをみ殿の心をまもりてそれにしたがふべしかみのゆいやうによりてかほのなりよくなれるものなりひたいのかヽりによりてかみのゆひやうもかはるべし」
      とある。『女鏡秘伝』からの引用である。髪の結い方について、流行によるものではあるが、気をつけなければ軽率に扱い品の無いものになるという。もとより髪は黒く長いのが本来である。しかし長すぎると気味が悪いと嫌う者もいる。他方、好む者もいる。この好悪は一概には説明できないもので、他人の様子を見て学んだり、夫の好みに従うのが良い。髪の結い方で顔形も良くなるものである。額の形で髪の結い方は変わる云々。
      「髪の形古今太だ異也と雖も其意粗相似たり蓋昔は下げ髪を専とす故に髪毛自ら長く近世は三都とも種々の髪ありて皆形に応て物を納れ結ひ櫛簪等を以て髪根を労らす故に其長き人も概三尺に過ず故に御殿女中も下げ髪の時は鬘を継て長くす鬘かもじと云」
      とある。守貞の考えでは、女性の髪形は昔は髪を背後に垂らす下髪が専らであり、それ故に髪の毛は長かった。近年では長い人でも三尺程度であり、貴人に仕える女中でも下髪にする時には鬘(かもじ)を用いると言う。ここで言う「鬘」は入髪の類であろう。
       続いて額を剃り整える事について。
      「額之剃様の事ひたいをするは誠に大じのものなりひたいのなりあしければかほのしをなくなるものなりすりたるきわの見えぬやうにせらるべし人によりてうまれつきのまヽこそよけれ生れ付によりてなりあしくば又すれるもよしかまへてかまへてむさとすり給ふべからず」
      とある。「しを」は不詳。守貞に倣って「しな」と読んで置こう。額を剃ることは大事なもので、額の形が悪いと顔が品なくみえる。ただし人によっては、生まれつきのまま剃り整えなくても、額の形が好ましい場合もある。形が悪ければ剃り整えれば良いのであって、決して軽率に扱ってはならないものであると言う。ただし、
      「額すること古今其形異其意同也蓋今世は専ら生質のまヽにて不剃者多し」
      とあり、守貞の頃には剃らない者が多かったとようである。


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        続・江戸の話 百十五


        今回も『守貞謾稿』女扮編。女性の髪形の話である。
        「凡女子生れて七夜の祝三十三日の宮参り三歳の髪置き被衣初め七歳の帯解祝等のこと粗男子の条に云るが如し 或書曰古の童女は髪をきらず平鬙を以て肩辺に結び背に垂れ眉は「ぼうまゆ」に作る是をわらはといふ云々愚按是足利幕府の頃を云なるべし平鬙は薄様を細く折て用ふるを云所詮古の女子は老少ともに専ら長髪散披にて或は肩に結び或は包みたるもあるべし 前に云る平鬙を以て肩の辺に結ぶものは武家の童女の風歟」
        とある。女子についての祝事は髪置等あるが、この点については男子の条にも示しているとして省かれている。女子の髪形について、童女は髪を切らずに平元結で肩の辺りで結び背中側に垂らし、眉は「ぼうまゆ(棒眉)」にする、これを「わらは(童)」と言うと或書から引く。「わらわ(童)」の由来が頭髪が「わらわら」と乱れた様に由来するとする説と同系統である。となれば、当然成人すると髪形は変化するということであるが、その点は後に譲る。「ぼうまゆ」はその名の通り棒状に描いた眉である。髪をまとめる平元結は既に前回までに記したので、参照されたい。
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        「明暦の印本に上図を載たり蓋上の童女は市民の女下に図するものも亦貴人に非ず老母と二人薬師寺に詣する図にて更に奴婢等を供せず是賎民の体也」
        とある。文中「上図」が左図、「下の図」が右図。守貞は左図は市民の女子、右図も貴人ではないと推測する。
        「蓋し元結を用ひず髪末を切たるは禿と云是也古く禿と云は髪形を云也今は太夫と云遊女に仕ふ童女のみを禿と云は非也上図の女童の髷名未詳」
        とある。右図のように元結を用いず髪の末を切り整える髪形を「禿(かむろ・かぶろ)」と云。古くは「禿」は髪形を指すものであったが、守貞の頃には上級の遊女に使える童女を指すと言う。なお、左図の女童の髷の名称は未詳とする。
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        「同本に下の図あり是漸く成長の風歟或は僅に賎からざる人の女等歟万治の印本にも同じ髪を描けりともに十二三歳の処女と見ゆ前の二図は十歳未満と見ゆ 此の図平鬙を以て結ひ垂ると雖ども其髻百会にあり当時既に如斯」
        とある。この図では、平元結で結び髪を垂らしているが、もとどりは頭の中央である。この図が前図と比して成長した女性の風姿であるのか、それとも賎しくない童女の図であるのか明らかではないが、守貞は前図より数歳年上であるとみなしている。


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          続・江戸の話 百十四


           女扮編。今回は女性の髪にまつわる話である。
          今世能の狂言は専ら白布を以て頭を包む也能の狂言の扮は男女ともに四五百年前の風姿を存せり衣服の製及び如此の事も古風を存する者彼狂言の扮のみ後世に至り彼扮の漸く変革あらん事を歎ずる也蓋狂言の扮の頭包の白布は両端を左右耳の辺より垂て腰に至れり是古を失する歟又は如此風もありし歟
          とある。狂言で、男女が頭を白い布で包む装いは、4〜500年前の風習を残しているものであり、髪型・衣服は男女ともに変化したが、狂言の中にとどめられたと言う。ただし、完全に古風を残している訳ではなく、変化して部分もあるのではないかと懐疑を示す。
           さて、白布ではなく髪型自体はどうかと言えば、
          慶長元和中婦女髪之事 貞享中刊本女重宝記に曰兵庫吹上角髻ぐるぐる丸髷こだん髷下げ髪笄(笄髷下略也)大島田今時はやるやつし島田此外様様結やう有と雖ども上々は下げ髪町風は京も田舎も島田笄髷の二色上瓩皺悉も押なべて結ことに七八十何以来に及べり脇結のやつしは島田はわけらしくて目に立振袖の笄髷はおとなぶりていな物なれば夫々に結ひ玉ふべし云々
          と、『女重宝記』を引く。意味の詳らかでは無い部分もあるが、当時の人も同様であったようで、解説が付され、
          兵庫角ぐる下げ髪笄曲大島田等下に図す吹上ぐるぐる丸曲こだん曲等形詳ならず昔も上瓩浪爾家叡浪爾賄臈弔披曲を専とし特に婦は笄曲処女は島田を良とすること古今同制也蓋昔は島田と笄と婦女通用する歟今は島田は必ず処女也故に島田と云は処女と云ふが如になる笄亦必ず婦のみ用之少女不用之わきづめは留袖と今俗云が如し京坂留袖の遊女を本詰と云の類也二色は二種と同く押なべては都て也わけらしくては猶春心おとなぶりは長人風也
          とある。兵庫・吹上・角髻・ぐるぐる・丸髷・こだん髷・下げ髪・笄髷(こうがいまげ)・大島田等の髪型がある。吹上・ぐるぐる・丸髷・こだん髷については、既にその形はよく分からない。上流の人々は背に垂らす「下げ髪」、下々では「島田髷」や笄に髪を巻き付けた「笄髷」を専らとし、既婚では笄髷、未婚では島田髷が好まれる。脇詰(留袖)即ち既婚女性で島田髷をすると色めいて見えるし、振袖即ち未婚女性の笄髷は大人ぶっているようで異な物である、というのである。
          愚按慶長中如斯数名ある歟予未観其古画 前に云る如なれば兵庫曲島田曲ともに古き名也摂の兵庫駿の島田駅との遊女傀儡の結始て世上に弘り其初地の名を以て髷名とする也 天和中始る勝山遊女より始れども地名に非ずして遊女の名也
          とある。『女重宝記』にある通りであれば、兵庫髷・島田髷ともに古くからの名ということになり、摂津の兵庫・駿河の島田の宿の遊女・傀儡女が結ったことはあら始まり、次第に世間に広がるに際して、その発祥の地の名称が髷の名前となった物である。ただし、勝山髪は、同じく遊女から始まったが、「勝山髪」の名は地名ではなく、遊女の名「勝山」に由来する、と守貞は考察するのである。


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