百年新報 (1913.11.24)


新嘗祭御祭典
「東京朝日新聞」1913/11/23

二十三日は宮中御祭典中、最も重き新嘗祭の御当日に付、午後二時より岩倉掌典長以下、各掌典並に掌典補、神嘉殿の御粧飾に従ひ、四時、御殿の中央に御神座を奉安し、五時四十分、掌典並式部官等着床、庭燎、並に齋火の燈燎を点じ、岩倉掌典長、恭しく祝詞の奏上あり。

二の酉
「東京朝日新聞」1913/11/23

本日は二の酉にて、昨夜よりの晴れなれば、早くも午前十時頃より人出盛り、田圃の大鷲神社界隈は一の酉にも劣らぬ賑ひなりき。

【メモ】
年中行事に関する記事、二題。
秋が去り、年が暮れてゆく。


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    第10回 [3人の神様]木下淑夫


    激戦、関西鉄道対官営鉄道

     日本の鉄道を生まれ変わらせた「3人の神様」シリーズの最後は、「営業の神様」こと木下淑夫(きのしたよしお)です。これまでこのシリーズで取り上げた結城弘毅と島安次郎は国有化される前の私鉄の出身でしたが、木下は国有鉄道出身で、国有鉄道のサービス向上に努め、その後の国鉄、JRへと続く営業制度の基盤を作り上げた人物です。
    彼は1874(明治7)年に京都府熊野郡の酒造家木下善兵衛の次男として生まれました。年齢的には島の4歳下、結城の4歳上とちょうど中間にあたる人物です。1898(明治31)年に東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、引き続き大学院で法律と経済を学びました。1899(明治32)年に在学のまま逓信省鉄道作業局工務部に鉄道技師として就職、1902(明治35年)には鉄道作業局の運輸部旅客掛長になります。

    この時、国有鉄道が直面していたのは名古屋〜大阪間を並行する私鉄関西鉄道との壮絶な競争でした。前回取り上げた島安次郎(http://tokyosigaku.jugem.jp/?eid=195)は、1894(明治27)年に関西鉄道に入社し、関西鉄道のサービス水準を大きく向上させて並行する官鉄線を圧倒しました。木下が旅客係長になった1902年には、島は既に関西鉄道を退職していましたが、関西鉄道は島の作り上げた高速度・高品質な鉄道サービスを武器に官鉄に対して前代未聞の価格勝負を挑んできたのです。官営鉄道では6円80銭だった一等車を4円にまで値下げしたのです。
    官営鉄道とはいえひとつの営利事業です。関西鉄道に殺到する旅客を、指をくわえて見ているわけにはいきません。官鉄も対抗措置として割引運賃を始めます。その陣頭指揮をとったのが若き旅客係長木下でした。官鉄は一等車を5円まで値下げし、三等車では関西鉄道より50銭安い1円50銭としました。木下は時刻表をそえて案内チラシを広く配布し、関西鉄道への対抗を大々的にPRします。これは、これまで「乗せてやっている」という態度でお客を見ていた官営鉄道には前例のないことでした。
    関西鉄道はすぐに三等車では同額、二等車は官鉄よりも50銭安い往復切符を設定します。両社の争いは割引に加えて弁当をつけたりおまけをつけたりと加熱の一途を辿りますが、ついには政治問題化し、1904(明治37)年に政界や財界からの申し入れもあって両社の破滅的な競争は幕を閉じました。

    鉄道サービスの開花

    関西鉄道との壮絶な営業合戦を戦い抜いた木下は鉄道のサービスについてさらに学ぶべく、同1904年に自費でアメリカに留学します。官営鉄道としても木下の手腕に期待すること大きく、翌1905(明治38)年に留学生制度を設立して官費で支援をし、アメリカに加えイギリス、ドイツなどヨーロッパ諸国にまで足を延ばして鉄道を学び、1907年(明治40)年に帰国します。帰国した木下は鉄道局旅客課長に就任し、今度は鉄道国有化の最前線に立つことになります。日本全国の17私鉄を買収し、一気に巨大なネットワークを保有することになった国有鉄道ですが、各社寄せ集めの設備、規定の整理が急務でした。木下は各社の運輸規定を参考に、必要の都度積み上げ式に作られてきた複雑な規定を整理するとともに、アメリカ式のサービス主義・営業主義を取り入れた国有鉄道の営業規定を作り上げます。この作業には4年もの月日が費やされました。
    さらに定期券割引制度の創設、時刻表の整備、特急列車の導入、営業所(今で言うみどりの窓口)の開設、回遊列車(今で言う観光用臨時列車)の設定など、これまでになかったサービスを次々に導入します。現在に通じる営業サービスの多くは明治末から大正はじめにかけて木下の手によって導入されたものでした。
    さらに1911(明治44)には「汽車中の共同生活」なる旅客へのマナー啓発を説いた冊子を作成して配布しました。ここでは「乗降は降りる人が先」「座席は一人一席」「老人や子供、女性に座席を譲ること」「車内清掃」など今に通じる乗車マナーが説かれています。

    木下淑夫の描いた鉄道像

     木下は鉄道を国内に閉じたネットワークとは考えていませんでした。鉄道はそのまま海外へ、大陸へとつながり、外国人旅客を広く招き入れるためのツールと捉えていました。日本初の特急列車も東京から下関まで繋ぎ、そこから連絡船で朝鮮半島へと渡る国際連絡列車として設定されています。またロシアや中国との国際連絡協定締結にも尽力しています。
     木下は留学中に外国人が日本のことを理解していないことを痛感します。日本のことをもっと知ってもらい、日本を好きになって欲しい、そのためには百聞は一見に如かずとの考えから、彼は国際観光事業を強く推進し、外国人旅客の誘致に努めます。その過程で1912(明治45)年に木下が原敬首相に直談判して創設したのが「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」つまり日本交通公社(1963年に民営化、現在のJTB)でした。ジャパン・ツーリスト・ビューローの本社は東京駅に設置され、さらに東京駅には「東京ステーションホテル」が開設されます。
     

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     これほどまでに日本の鉄道の基礎を作り上げた木下でしたが、病に冒され、1922(大正10)年に病気休職、1923(大正11)年9月6日に48歳の若さでこの世を去ります。彼は病床にあっても鉄道の研究を続け、鉄道の未来像を描いていました。これからは自動車の時代が到来する、鉄道は赤字線の建設をやめてバスを開通させ、幹線の改良に資金を投入しなければ鉄道は立ち行かなくなると木下は記しています。彼の予言は的中し、国鉄は経営難に陥りますが、JRとして再生します。木下が撒いた種は、80年以上が経過してやっと芽を出しています。きっと彼は、外国人観光客が新幹線に乗って日本中を周遊している姿を、穏やかな笑みで眼下に眺めていることでしょう。

    (第3シリーズ終わり)




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    [過去記事]
    第9回 [3人の神様]島安次郎
    第8回 [3人の神様]結城弘毅
    第7回 [改軌論争]原敬と我田引鉄
    第6回 [改軌論争]後藤新平と大陸政策
    第5回 [改軌論争]鉄道国有化と改軌論争
    第4回 [鉄道創成期]私鉄の発展と鉄道国有化論
    第3回 [鉄道創成期]鉄道政策鼎立時代
    第2回 [鉄道創成期]明治政府の方針転換と私営鉄道成立
    第1回 [鉄道創成期]井上勝の鉄道構想
    「鉄人の軌跡」 予告編
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      第9回 [3人の神様]島安次郎


      「きかんしゃトーマス」と「銀河鉄道999」はなぜ違うのか

       「きかんしゃトーマス」と「銀河鉄道999」をご存じない方はいないと思います。どちらも(顔はともかく)リアルな機関車描写で知られる作品ですが、よく見ると機関車の先頭形状がずいぶん違うことに気づきます。

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       「きかんしゃトーマス」では車両の先頭両端に突起があります。「銀河鉄道999」にはそのような突起はなく、真ん中にひとつ連結器がついているだけです。これらの機関車は何が違うのでしょうか。

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      実はこれは実際に使われていた連結器の形状の違いなのです。トーマスがつけているのは「ねじ式連結器」で、999が備えているのは「自動連結器」です。一見して分かるように、ねじ式連結器のほうが原始的で、自動連結器は先進的な構造をしていることが分かります。ねじ式連結器は車両の間にフックをかけて、間のねじを締めることで二つの車両を固定します。そして両端に生えた腕(緩衝器)で前の車両を押していくのです。一方の自動連結器は両方の車両が握手するような形で車両を固定します。ピンを引くだけで自動的に連結、開放ができるのです。また、牽引力も安全性も自動連結器の方が優れていました。
      緩衝器の間に潜り込んでねじを締めあげるねじ式連結器の操作には手間と危険が伴います。車両運用の効率化のためにも、作業員の安全確保のためにも、各国の鉄道技術者は旧式のねじ式連結器を自動連結器に交換したいと考えていました。しかし全国にわたって運用されている列車の連結器を少しずつ変えていくことは事実上不可能でした。現にヨーロッパでは現在もねじ式連結器が用いられています。日本も鉄道導入当初はこの連結器が用いられてきましたが、1925(大正14)年7月17日、一晩にして日本中の全列車の連結器を自動連結器に一斉交換するという前代未聞の偉業を成し遂げました(九州、四国は当時本州と連絡されていなかったため別の日に実施)。

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      1872(明治5)年の開業時に日本に導入された「1号機関車」にはトーマスと同じようなねじ式連結器を備えている事が分かります。一方、日本を代表する蒸気機関車の「D51」や「C62(銀河鉄道999のモデルとなった機関車)」は自動連結器となっています。自動連結器を全面的に採用している国は日本以外では、アメリカ、ロシア、中国など一部にとどまります。こうして日本の車両の運用効率は飛躍的に向上し、係員の死傷事故も大幅に減りました。欧米も驚嘆した「連結器一斉取り換え」を成し遂げた男の名を「島安次郎」といいます。

      関西鉄道の島安次郎

       鉄道の花形はなんといっても車両です。蒸気機関車が力強く客車を引く姿や、電車が都市の高架線をすり抜けていく姿は多くの鉄道ファンを魅了してきました。鉄道というシステムが海外からもたらされたとき、日本人はまだレールや機関車を自前で作るだけの技術を持っていなかったので、鉄道黎明期は主にイギリスやアメリカから輸入した機関車を用いて営業運転がなされていました。
      幕末に幕府や各藩に蒸気機関車の模型が持ち込まれた際に、当時の職人たちが見よう見まねで再現してみせたという記録は残っていますが、実際に営業運転に用いられるほど完成度の高い車両を日本人の手で作り上げられるようになるのは20世紀に入ってからのことです。日本における機関車国産の先駆けとなったのが、今回ご紹介する「車両の神様」こと島安次郎です。

      島安次郎は1870(明治3)年、和歌山県和歌山市で薬問屋を営む島家の次男として生まれました。彼は幼少より優秀な成績を収めたことから、15歳の時に父の勧めで東京に行くこととなり、独逸学協会学校で医学を学ぶこととなります。彼はここでも首席を争う才能をみせ、第一高等中学校に進学します。しかし、ここで彼は医学から工学へと進路を変え、1891(明治24)年に東京帝国大学機械工学科(現在の東京大学工学部)に入学し、最新の機械工学を学ぶことになります。島は大学に在籍しながら実際的な研究のために各地の紡績工場や鉄道工場を回っています。その一環でたどり着いたのが、当時名古屋と大阪を旧東海道経由で結ぶことを目的として設立された私鉄「関西鉄道」でした。島は1894(明治27)年に関西鉄道に入社します。
      若き技術士として関西鉄道に迎え入れられた島は早速めざましい活躍をみせます。並行する官営鉄道(東海道線)との競争のため、アメリカ製の新型機関車を導入しスピードアップを図ります。この機関車は日本では当時最高の最大速度80km/hを誇る俊足機で「早風」号と名付けられました。さらに、1等車、2等車、3等車にそれぞれ色の違う帯をつけて誤乗を防ぐアイデアや、車内照明を照度が不足していた電灯からガス灯に変えるなど速度面以外の車両サービス向上にも尽力し、関西鉄道は官営鉄道に対して優位に立つことになるのです。

      国産蒸気機関車の誕生

      しかし経営方針をめぐって対立が起きて社長が辞任すると、島も追うように関西鉄道を辞め、1901(明治34)年5月に(当時鉄道局を管轄していた)逓信省に入省します。当時鉄道界は「国有化」をめぐって激しい論争が繰り広げられており、島も鉄道の国有化について強い思いを抱いていたからです(第4回参照 http://tokyosigaku.jugem.jp/?eid=146)。島は1903(明治36)年にプロイセン(ドイツ)に留学し、国有化されて統一された鉄道システムや最先端の高速電気機関車を学び、日本の鉄道技術の刷新に向けた強い思いを新たにするのです。

       電車が発明されてからわずか20年あまりで、電気機関車は(高速試験走行とはいえ)210km/hもの速度を達成するほどになっていました。これは東海道新幹線の開業時の最高速度と同じですから、いかにヨーロッパの鉄道技術が進んでいたかを示す数字です。一方、日本ではまだ蒸気機関車の量産すらろくに果たせず、狭軌のもとで最高速度80km/hがせいぜい。島は機関車の国産化とともに、高速化のためには標準軌への改軌が必要であると考えていました。第5回(http://tokyosigaku.jugem.jp/?eid=153)から第7回まで触れた「改軌論争」において、島は後藤新平の下で重要な役割を担っていました。

       改軌論争については割愛しますが、島は並行して国産蒸気機関車の開発に尽力し、1914(大正3)年に貨物専用の8620形蒸気機関車を開発します。また、これをベースに急行列車牽引用の9600形蒸気機関車も開発し、あわせて1400両以上が量産されました。もちろん外国の先端技術を参照したものではありましたが、ここから日本の車両技術は独自の歩を進めていくことになります。
      島の目指した「標準軌」による「高速運転」は後に「新幹線(弾丸列車計画)」として結実します。新幹線を開業させたのは島安次郎の長男、島秀雄でした。

      (続く)




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      第8回 [3人の神様]結城弘毅
      第7回 [改軌論争]原敬と我田引鉄
      第6回 [改軌論争]後藤新平と大陸政策
      第5回 [改軌論争]鉄道国有化と改軌論争
      第4回 [鉄道創成期]私鉄の発展と鉄道国有化論
      第3回 [鉄道創成期]鉄道政策鼎立時代
      第2回 [鉄道創成期]明治政府の方針転換と私営鉄道成立
      第1回 [鉄道創成期]井上勝の鉄道構想
      「鉄人の軌跡」 予告編
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        第8回 [3人の神様]結城弘毅


        定時運行の必要性

         前回シリーズで見てきたように、日本の鉄道は「改軌」による輸送力増強ではなく、鉄道建設の拡充を選択し、欧米には一歩劣る狭軌規格での鉄道整備を進めていく決断をします。しかし、第一次大戦後の商工業の発展を背景に、鉄道網の整備と鉄道の輸送力向上はどちらも強く求められていた課題であり、鉄道建設を優先したからといって輸送力問題が解決するわけではありません。
         輸送力を増強するためには、これまでの鉄道システムをさらに進化させ、抜本的な改良をする必要がありました。大正から昭和初期にかけての時代は、鉄道システムが真に日本の必要とするものに姿を変えていくための重要な期間となりました。現在の日本の鉄道システムを支える基礎はほぼこの時代に作り上げられたといっても過言ではないのです。

         一列車の輸送力では狭軌の車両は標準軌の車両に劣ります。ということは、より多くの列車を走らせれば一列車あたりの輸送力の劣位を覆すことができるわけです。以下の図のように、輸送力100の列車を3つ走らせるよりも、輸送力70の列車を5つ走らせる方が総合的な輸送力は大きくなります。しかし、列車の間隔が短くなると、ある列車が何かしらの理由で遅れた分だけ後ろの列車に遅れが波及しやすくなり、ちょっとしたトラブルで総合的な輸送力が落ちてしまいます。列車の密度を高めて輸送力を増やすためには、ダイヤ通りに列車を走らせなければならないのです。こうして日本の鉄道は否応なく「時間通りに走ること」を宿命づけられるようになりました。

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        運転の神様「結城弘毅」

         結城弘毅(ゆうきこうき)は1878(明治11)年に札幌に生まれ、1905(明治38)年に東京帝国大学工学科を卒業し、技士見習いとして山陽鉄道に入社しました。山陽鉄道とは現在のJR西日本山陽本線を建設した私鉄で、ほどなくして鉄道国有化によって国鉄山陽本線に組み込まれます。結城もそのまま鉄道庁技師に任ぜられ、機関庫主任、鉄道管理局機関掛長など歴任します。彼は特に運転技術を高く評価されていました。スイッチを入れれば誰でも同じように動かせる現在の車両とは違い、当時の蒸気機関車は車両ごとに質も違えば、石炭の入れ方、窯の焚き方ひとつで出力が変わる生き物のようなものでした。結城の運転する機関車は他の人が運転するそれよりも多くの貨車を曳き、より速度を出すことができたと言われています。
         明治末の列車は運転士、機関士ごとに運転技量がバラバラで、20分も30分も遅れることは日常茶飯事でした。結城は着任した線区で各運転士に正確な時計を持たせるとともに、沿線の各所に目印になるものをいくつも選び、その箇所を通過するときに時刻を確認するように命じました。またそのために運転士、機関士とともに石炭のくべ方や焚き方を研究して速度制御技術の向上に努めました。

         結城は1923(大正12)年に神戸鉄道局運輸課長、1928(昭和3)年に大阪鉄道局運転課長となり、翌1929(昭和4)年に運輸局運転課長に就任しました。結城は各地で定時運行の定着をすすめます。日本の鉄道の定時運行率の高さは大正から昭和期にかけて確立されたものだと言われています。その影には、結城弘毅というひとりの技師の情熱があったのです。

        輸送密度の向上

         鉄道の輸送力をあげるためには決められたダイヤ通りに列車を走らせることと、列車の間隔を詰めること、そして速度を向上させる必要があります。下の模擬ダイヤグラムでわかるように、列車の速度が速いほど同じ時間でA駅からC駅に多くの列車を走らせることができます。逆に列車に遅れが生じるとA駅からC駅間の輸送力が低下することがわかります。これが遅延のメカニズムです。列車が遅延すると時間当たりの輸送力がおち、それが混雑の原因となり、新たなる遅れを招くというスパイラルに陥ってしまうのです。

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        結城は1930(昭和5)年に東京〜神戸間を結ぶ超特急「つばめ」を設定し、東京〜大阪間を8時間20分という当時としては驚異的な速度で走らせます。1889年に東海道線が全通し、東京と大阪が初めて一本の列車で結ばれた時には約20時間を要していたので、わずか40年間で半分以下にまでスピードアップを果たしました(一方、東海道新幹線は開業から30年かけて1時間30分の短縮を実現しています)。

         速度向上のためには出力の大きな機関車を走らせるだけでは足りません。大きくて重い機関車を受け止めるレールと路盤があり、急行列車と緩行列車を分ける線路の増設があり、短距離を高速・高頻度運転することができる電車の導入があり、安全に速度を出すための信号システムの改良があり、速度を出しやすいように勾配やカーブを少なくするための線路形状の改良がありました。これらの技術的進歩を背景に、鉄道の高速化と高頻度化が可能となり、日本の鉄道は狭軌のままに大きく輸送力を向上することができたのです。

        (続く)


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        [過去記事]
        第7回 [改軌論争]原敬と我田引鉄
        第6回 [改軌論争]後藤新平と大陸政策
        第5回 [改軌論争]鉄道国有化と改軌論争
        第4回 [鉄道創成期]私鉄の発展と鉄道国有化論
        第3回 [鉄道創成期]鉄道政策鼎立時代
        第2回 [鉄道創成期]明治政府の方針転換と私営鉄道成立
        第1回 [鉄道創成期]井上勝の鉄道構想
        「鉄人の軌跡」 予告編
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          第7回 [改軌論争]原敬と我田引鉄


          平民宰相原敬

           原敬は1856(安政3)年に南部藩士原直治の次男として生まれました。「平民宰相」として知られる原ですが、実は上級武士の家柄出身で、分家して平民籍となりました。原は1877(明治10)年に司法省法律学校に入学し、優れた成績を残すも学生の待遇改善運動に関与したとして退学処分となり、郵便報知新聞に就職します。次第に論説でも頭角を表すようになりますが、「明治14年の政変」によって下野した大隈重信らが同社を買収して立憲改進党の機関紙とすると、原は報知新聞を退社、翌1882(明治15)年に外務省に入省します。

           天津領事館、パリ公使館勤務を経て農商工務省に移った原は陸奥宗光と出会います。第2次伊藤内閣の下で陸奥が外務大臣に就任すると原は通商局長として外務省に復帰、1895年(明治28)年には外務次官に抜擢されます。ところが陸奥が体調不良で退任し、その後第2次伊藤内閣が崩壊すると原は外務省を辞めてしまいます。ここから彼の政治家としてのキャリアがスタートしました。
           1900(明治33)年、自由民権運動を主導した旧自由党勢力を中心に日本初の本格的な政党「立憲政友会」が成立します。総裁伊藤博文の勧めで原は政友会に入党し幹事長に就任、その後の第4次伊藤内閣では逓信大臣として初入閣を果たすという華々しいデビューを飾るのです。

          政友会と我田引鉄

           徳川幕府を倒した明治新政府は天皇を中心とした新しい政治体制を打ち立てますが、次第に政府方針の対立が顕在化し長州、薩摩を中心とした藩閥政治が形成されていきます。政府を追われた志士たちは言論による政治参加を求め「自由民権運動」を進めていきます。その中心となったのが土佐藩出身の板垣退助率いる「自由党」と、佐賀藩出身の大隈重信率いる「立憲改進党」でした。彼らの声を無視できなくなった政府は大日本帝国憲法を制定、1890(明治23)年に国会を開設し、日本の議会政治が始まります。

          ところが当時の制限選挙制のもとでは選挙権を持つのは地租を払う地方有力農民層だったので、議会は士族ではなく農民の要求が色濃く反映される場となりました。彼らの要求は地租の低減つまり減税であり、近代国家建設のためにインフラ整備や軍拡を急ぎたい明治政府の方針とは相容れぬものでした。藩閥政治と議会は激しく対立しますが、やがて政党は現実主義に転換していき、増税を認める代わりにその利益を地方に配分していくという妥協案を生み出します。
          この「積極主義」と呼ばれる政策を進めたのが自由党の星亨(ほしとおる)でした。彼は数々の汚職疑惑を巻き起こしながらも、その卓越した政治手腕で地方の支持を獲得して自由党を躍進させていきます。その最大の目玉が「鉄道」でした。自由党の鉄道誘致政策は「我田引鉄」と呼ばれ、その手法は後継の政友会に継承されていきます。1901年(明治34)年に星は暗殺されますが、彼の積極主義をもっとも忠実にかつ徹底して引き継いだのが原敬でした。

          鉄道院と政友会

           日清戦争・日露戦争を経て国有化された鉄道はその後重大な岐路を迎えます。第5回で触れたように、鉄道国有化は鉄道整備を促進するために政府と民間の両者が求めたことでした。しかし国有化後は、政府は大陸政策を背景として幹線の改良による輸送力増強を、民間は地方への鉄道建設を優先したいと考えるようになります。後藤新平をはじめとする前者の考え方を「改主建従」、政友会をはじめとする後者の考え方を「建主改従」と呼びました。改良を主とするか、建設を主とするか、両者の対立は真っ向勝負となりました。

           鉄道院が設立されたのは1908(明治41)年のことです。鉄道院が鉄道省に昇格される1920(大正9)年までの明治末〜大正期は、従来の政治システムが大きく揺れ動いた時代でした。講和反対の日比谷焼き討ち事件から始まった大衆のうねりは大正デモクラシーへ向けて政治を揺さぶり続けます。下の図は1908年から1920年までの政権と歴代の鉄道院長官の移り変わりを表にしたものです。赤枠の政権は反政友会の藩閥政治、青枠の政権は政友会が支えた政党政治であると大まかに理解してください。

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           藩閥政治が主導権を握った時代は後藤新平らを中心に改軌の検討が進み、政友会が主導権を握った時代は「軽便鉄道法」や「地方鉄道法」の制定、「鉄道省」設置など鉄道拡充の動きが進みます。改軌検討のために組織された委員会やその予算は政友会が政権を握ると押しつぶされ、藩閥政治が政権を奪取すると再び動き出していることが分かります。
           後藤が三度鉄道院総裁に就任した1918(大正7)年には実際に横浜線(現在のJR横浜線)で改軌試験が行われ、当初の想定よりも安く、またスムーズに改軌を実現できることを実証してみせました。ところが改軌論は政治の波に翻弄されて歴史の中に消えていきます。後藤新平の盟友でもあった陸軍大将寺内正毅内閣は米騒動という民衆の力によって倒れ、ついに政友会総裁原敬に組閣の大命降下がなされるのです。日本初の本格的な政党内閣の誕生でした。原内閣の内務大臣兼鉄道院総裁床次竹二郎(とこなみたけじろう)によって改軌計画は正式に中止されました。

          改軌論の止揚

           改軌論の中心には大陸との一貫的な輸送体系確立と輸送力の増強がありました。確かに日本に初めて鉄道が開通した19世紀では、1,067mmの狭軌では2,500mm程度の車体がやっとであり、1,435mmの標準軌による3,000mm近い大型車両とは大きな差がありました。

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           ところが陸軍兵站監部参謀の大沢界雄が指摘したように、20世紀に入ると鉄道技術の進歩により狭軌でも標準軌と遜色ないサイズの車両が運用できるようになりました(現在のJRでは狭軌の線路でありながら欧州の標準軌規格よりも大きな車幅の車両が使われています)。また軌間を変えたところでカーブやトンネルなど構築物を根本的に作り直さない限りは大幅なスピードアップは不可能です。手間の掛かる改軌よりも、狭軌のままでの鉄道のバージョンアップのほうが現実的な選択肢となってきたのです。

           完全な新規格による標準軌路線建設は後に「弾丸列車」計画として提唱され、戦後「新幹線」として実現しますが、それはまた別の機会に触れましょう。次回からは大正から昭和のはじめにかけて行われた「鉄道のバージョンアップ」のキーマンたちを見ていきたいと思います。

          (第2シリーズ終わり)


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          [過去記事]
          第6回 [改軌論争]後藤新平と大陸政策
          第5回 [改軌論争]鉄道国有化と改軌論争
          第4回 [鉄道創成期]私鉄の発展と鉄道国有化論
          第3回 [鉄道創成期]鉄道政策鼎立時代
          第2回 [鉄道創成期]明治政府の方針転換と私営鉄道成立
          第1回 [鉄道創成期]井上勝の鉄道構想
          「鉄人の軌跡」 予告編


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