第13回 副都心線〜都心から副都心へ


8号線の幻の弟だった13号線

 さて、地下鉄十三路線物語もいよいよ最終回。2008年6月に開業した「東京最後の地下鉄」こと13号線、路線名「副都心線」までやってきました。1927年に地下鉄が初めて開業してから81年、東京はJR、私鉄に加え13本もの地下鉄からなる世界有数の巨大交通網を作り上げるに至ったのです。

 地下鉄副都心線こと13号線は和光市から東武鉄道、小竹向原から西武鉄道に乗り入れ、さらに和光市〜小竹向原間を有楽町線と共有するという複雑な運行形態をとっています。その複雑さ故に開業直後にダイヤ乱れが頻発し社会問題となったのは記憶に新しいところです。というわけで、13号線の歴史を語るためには有楽町線つまり8号線を欠かすことができません。第9回で示した図を再度ご覧いただきましょう。

第9回で示した図


 西武鉄道は東武鉄道、営団地下鉄と協力することで東京都が8号線の免許を取得することを阻止したというお話をしました。
 東武鉄道は東武東上線と都営三田線の直通運転もとりやめ、この新路線8号線との乗り入れに傾き始めます。東武と車両の規格を合わせ、共同仕様のATSまで開発した東京都交通局はあっさりと梯子を外されてしまったのです。このあたりの経緯は第6回で触れたとおりです。

 東武鉄道と三田線の乗り入れが見直されると、西武と直通する路線と東武と直通する路線の関係も整理されます。1972年の都市交通審議会答申第15号で西武池袋線から練馬・小竹向原・池袋経由で銀座方面に直通するのが8号線、東武東上線から和光市・小竹向原・池袋を経由して新宿方面に直通するのが新設の13号線と改めて路線がふり直されました。小竹向原を出発して線路を直進すると東武線方面から副都心線方に、西武線方面から有楽町線方に進むのはその計画の名残です。
 両線からの直通列車の本数を鑑みて、小竹向原〜池袋間は8号線・13号線それぞれ別の線路を建設して複々線とすることも決まりました(線路が上下二段に重なっています)。この計画が正式に示されたのは1985年の運輸政策審議会答申第7号で、13号線の終点は新宿から渋谷に延長され、将来的には品川を経由して羽田空港へと至るルートも検討されました。

13号線
 
 前回12号線の際にも触れましたが、一極集中が進んでいた東京にとって、都市機能の分散は喫緊の課題でした。12号線の建設目的のひとつは都市機能の分散、副都心の育成でしたが、現実的には都心に向かう人々の足さえ整備しきれず、当初の5路線そしてそれらをサポートするバイパスルートの整備に追われてきたのが実情でした。
13号線は7号線(南北線)と同様に着工の目処が立たず、小竹向原〜和光市間も8号線として扱われることになり、東武線・西武線ともに有楽町線に乗り入れる時代が長く続きます。94年には小竹向原〜池袋まで準備されていた13号線の複々線部を有効活用するために「有楽町線(新線)」という奇妙な路線も整備されます。池袋の外れに寂しく存在していた新線池袋駅を覚えている方もいらっしゃることと思います。

 取り残された13号線「池袋〜渋谷間」はそのまま忘れられようとしていました。ところが、人々の記憶から消え去ろうとしていたはずの13号線を蘇らせたのが小渕政権による道路財源を活用した公共投資、景気刺激策だったのです。13号線は着想から30年近くの時を経て突然蘇ったのです。

1969年

13本目の地下鉄の行き先

 副都心線はその名の通り副都心をつなぐ地下鉄です。副都心という言葉もだいぶ古い響きを持つようになってしまいましたが、池袋、新宿、渋谷の西部三大ターミナルに都心機能を分散しようという半世紀以上前からの構想です。東京都庁も新宿西口に移転した今となっては、オシャレな香りの漂う丸の内よりも新宿の方が「都心」の響きが似合っているかもしれません。

 この副都心線が何よりも新しかったのは、その名の通り副都心をゆく、つまり都心には向かわない地下鉄だったという点です。これまでの12路線はいわゆる都心三区(千代田区・中央区・港区)を必ず経由しています。しかし、13号線はそのいずれにも立ち入らずに副都心を縦断してみせたのです。「副都心」とは今更古めかしい響きだと言われながらも、実が東京の新時代を明示してみせた路線なのです。

 当初は渋谷止まりの計画だった13号線ですが、2002年計画が変更され東急東横線と直通運転(http://www.tokyu.co.jp/railway/railway/east/pr/020129.html)を行うことになりました。埼玉県の西部から横浜にいたる首都圏を縦断する新しいルートの誕生です。東横線との直通運転開始は2012年度を目指しており、現在は工事も最終段階に入ろうとしています。

13号線2

 ところで東急電鉄を中心として副都心線をからめた面白いアイデアが検討されています。JR蒲田駅と京急蒲田駅をつなぐ「蒲蒲線」構想です。目黒線が開通して目蒲線から取り残された多摩川〜蒲田間を活用し、2つの蒲田駅を直結させて羽田空港へのアクセスを目指す壮大な構想です。

13号線3

 東急と京急では線路の幅が違うことや、密集する蒲田の地下をどう掘りつなげる、千億円とも言われる事業費をどうやってまかなうかなど課題は山程ありますが、羽田空港へのアクセスが意外と悪い城西地域の改善策として一部で本気の検討がなされているそうです。

 これからは、何もないところに新線を建設して開発するのではなく、既存の設備を活かして新しい「便利」を産み出す取り組みが主流になるでしょう。JRの湘南新宿ラインや相鉄・JR直通構想などもそうですが、相互直通によるシームレスな移動です。地下鉄も思わぬところがつながっていくかもしれません。すると東京の形はどんどん変わっていくことでしょう。交通機関が作り出す新しい人の流れこそが東京のダイナミックな変貌の原動力そのものなのです。

 1927年から2012年まで駆け足で追ってきた東京十三路線物語も今回で最終回となります。みなさまの暖かいご声援ありがとうございました。2月からは地下鉄だけでなく、様々な乗り物に視野を広げて「東京」のスケールの変化を追っていく新しいシリーズが始まります。変わらぬご愛顧をよろしくお願いいたします。


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    第12回 大江戸線〜地下をつなぐ環状線


    地下鉄環状線「大江戸線」

     「12号線」という呼び方はずいぶん懐かしい響きになりましたが、東京の地下をぐるっと結ぶ環状線、路線名をめぐる石原都知事の一騒動、やたら深くて乗るのも一苦労の「大江戸線」といえば今ではすっかり定着したのではないでしょうか。
     東京をぐるりと回る環状線といえば、まずは何はともあれ山手線です。山手線は米粒のような縦長の形をして東京の旧都心部(東京市15区)の西半分をぐるりと回っています。総延長は約34.5km、全長20m車両11両編成の列車が一日あたり約350万人を運んでいます。
     今回の主役である大江戸線は山手線より一回り小さく、横長の形に都心部をぐるりと回っています。環状線部分の総延長は27.8km、全長16m車両8両編成の列車が一日あたり約80万人(放射線部含む)を運んでいます。さすがに山手線と比較すると規模の小ささが目立ってしまいますが、都営地下鉄の中では最も多くの乗客を輸送する路線です。
    都心の地下をくりぬく地下鉄環状線という壮大なプロジェクトはどうやって実現したのでしょうか。

    12号線ができるまで
    第12回1

     この環状線のプロジェクトが最初に浮上したのは1962年の都市交通審議会5号答申です。この答申で示された「9号線」は京王線方面から新宿を経由して城東地区をぐるりと回り、麻布まで至る不思議な形をした路線です。城東から城南地区の地下鉄空白地域をぐるりと結ぶ経由地になっていました。

     ところが、京王線はその後新設された10号線(新宿線)と直通することになります(第10回参照)。そこで新宿から麻布の環状線部分が取り残されましたが、ここが大江戸線環状部の「原型」となります。

    12号線放射部の開発

     ところで12号線は都庁前から出発してぐるりと一周して都庁前まで戻ってくる環状部と、都庁前から光が丘へ伸びる放射部の2系統から成り立っています。
    光が丘にはかつて戦時中に陸軍が建設した成増飛行場がありました。飛行場は敗戦後米軍に接収され、グラントハイツという在日米軍向け家族宿舎に作り替えられます。グランドハイツは1973年に全面返還され、その跡地に東京都が団地や公園を開発しました。
     東京都は最大12,000戸45,000人が入居することになる光が丘団地及びそれに伴い人口増大が予想される周辺住民のための交通機関として地下鉄の建設を計画しました。東京都が掲げた整備目的は以下の3点です。

    (1)副都心の育成、地域の再開発の促進により、都心業務機能の膨張の抑制と都市機能の分散を促進する
    (2)環状部分で既成線と交差連絡することにより、交通網を充実させる
    (3)グランドハイツ跡地の大規模住宅団地及びその周辺地区、沿線の交通不便地域における交通手段を確保する

    第12回2

     東京都は1974(昭和49)年に12号線の免許を申請し、1985(昭和60)年の全線開業を目指します。しかし時代はオイルショックのさなか、経済・社会情勢が急激に変化により東京都の財政は急激に悪化し、12号線建設計画は一時凍結されることになりました。

     そこで、当初予定していた20m車両10両編成という通常の地下鉄と同様の規格をあきらめ、需要予測や建設規格を見直して建設費を圧縮することで、12号線の着工の実現を目指すことに方針転換、まず12号線放射部の光が丘〜練馬間の建設から着手することとして、1983(昭和58)年からの事業計画に盛り込みました。
    この建設費圧縮の切り札としてトンネル断面積の小さな「小型地下鉄システム」が導入されることになり、運転もワンマン化、ルートもほぼ全線で道路下を利用して用地費を削減、駅も改札や出入口も最低限に切り詰められました。その結果現在では利用者の増加した一部の区間、駅で混雑が激化しているのは皮肉なことです。

     こうして見直された計画では、第1期区間として1990年度末までに光が丘〜練馬間を開業、第2期区間として1994年度末までに練馬〜西新宿(都庁前)〜新宿を開業、第3期区間となる新宿〜浜松町〜清澄〜上野広小路〜西新宿の環状線区間については1995年以降のできるだけ早い時期の開業を予定します。
    環状区間の早期建設・全線同時開業を実現するために、多様な資金調達が可能で、予算の執行、要員確保が容易な第三セクター(東京都地下鉄建設株式会社)を設立し、建設後は東京都交通局が運営を行うこととされました。

    第12回3

     実際の開業は予定より若干遅れることとなり、第一期区間は1991(平成3)年に、第2期区間は1997(平成9)年に、第3期区間の環状部は2000(平成12)年12月12日に予定通り全線一斉開業となります。12号線にちなんだ12揃いの日でした。
     開業時に内定していた路線名「東京環状線(愛称:ゆめもぐら)」に対し、「環状線っていうのはずっと乗ってても同じところに戻ってくるものを言うんだ」と石原東京都知事がケチをつけ、再検討の結果「大江戸線」と決定されたという騒動もありました(なお、この石原知事の見解は「環状線」の定義としては正しいものではありません)。

     当初7,000億円弱を見込んでいた工費は、工期の延長により1兆円近くとなり、80万人強(1999年推計値)と見込まれていた利用者数も開業当時はたった39万人程度と散々な門出となります。それでも、認知度の向上、沿線開発の進展により2008(平成20)年には79万人と想定値に近い輸送人員まで成長し、東京都交通局の大きな収入の柱となっています。


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      第11回 半蔵門線〜時代をまたいだ地下鉄へ


      路面電車「玉川電気鉄道」

       さて、地下鉄十三路線物語もいよいよ第11回を迎えました。これまで第1回から第5回にかけて東京地下鉄整備計画の基本路線を、9回、10回ではそれをサポートする新路線9号線「千代田線」と8号線「有楽町線」の話をしてきました。ここまで読み進めていただいた方ならもうお分かりでしょう。地下鉄半蔵門線は、渋谷から銀座線と並走するように青山一丁目まで走り、赤坂見附付近から分岐して皇居の北側を回っていくルートが示す通り、銀座線をサポートする路線です。この路線を語るにはやはり銀座線から振り返らなければなりません。

      第11回 の1

       銀座線が渋谷と都心を結んでいる理由は第1回で触れたとおり、東急グループの差し金があったからです。東急グループのターミナル渋谷駅から都心へと旅客を運ぶために五島慶太が作った地下鉄です。
      ところで、「東急玉川線」という路線をご存じでしょうか。「東急多摩川線」ではありません。今、東急田園都市線が走る渋谷〜二子玉川間には、かつて玉川線という路面電車が走っていました(写真はウィキペディアコモンズ「東急玉川線」より)。玉川線は1907年に玉川電気鉄道によって建設され、のちに東急グループに買収された路線です。

      第11回の2


       今は近代的な地下鉄が走るこの区間を、単車の可愛い路面電車が走っていたのです。既に東急電鉄による「田園都市線」を核とする多摩田園都市建設は始まっていましたが、当時は二子玉川から現在の大井町線に入るルートを田園都市線と呼んでいました。

      玉川線近代化計画

      しかし、途中駅から東横線、目蒲線(現在の目黒線)に乗り換えたり、大井町から都心に向かうルートは少々不便です。かといって渋谷への最短ルートは小さな路面電車でしかなく、田園都市線沿線の開発が進むにつれて玉川線の輸送力不足は明白になってきました。
      そこで銀座線を二子玉川まで延伸して玉川線置き換える計画が1962(昭和37)年の都市交通審議会で答申されました。第9回で触れた丸ノ内線の延伸と同じような計画がここでも浮上したのです。

      しかし、銀座線は丸ノ内線よりも小さな車体で既に輸送力不足は明らかでした。また独自のシステムと線路の幅を使う銀座線では、二子玉川まで延伸してもそこで乗換をしなければならないことには変わらないため、1968(昭和43)年の都市交通審議会答申第10号において銀座線の延伸ではなく、既存の鉄道と相互直通運転ができる規格の新線を別に建設することになりました。これが都市計画11号線です。
      つまり、11号線「半蔵門線」は地下鉄単体としてではなく、東急玉川線の近代化と一体となった計画として浮上した路線だったのです。さらに玉川線が走る国道246号線上には首都高速3号線が建設されることになり、これらの工事は地下から地上まですべて一体的に行われることになったのです。

      玉川線は1969(昭和44)年に一度営業を終了し、当面はバス代行とすることで対応し、1977(昭和52)年11月に「新玉川線」として再デビューすることになりました。新玉川線の呼び名に聞き覚えがある方もいらっしゃることと思います。この「新」とはかつての路面電車「玉川線」のリニューアルという意味合いでつけられた名前だったのでした。
      新玉川線は東急の路線でありながら、都市計画上は11号線の一部分ということになります。11号線は東急線から先に作られたのです。新玉川線は1979(昭和54)年から二子玉川から田園都市方面に直通運転を開始し、いよいよ田園都市ニュータウン都心に直通する路線が完成することになりました。
      ところで、今も三軒茶屋駅の外れから下高井戸まで細々と走る路面電車「東急世田谷線」は玉川線の支線でした。この路線は路面電車ではなく専用の線路を走っていたため廃止されず、今でも地域の足として走り続けています。
      なお、2000年に新玉川線の名称が廃止され、渋谷から中央林間までが「田園都市線」として統一さます。名前の上だけでも残っていた「玉川線」はここで100年近い長い歴史に幕を閉じることになります。これまで田園都市線と呼ばれていた大井町駅に向かうルートは「大井町線」というかつての呼称に戻されることになりました。

      第11回の3

      伸び行く半蔵門線と東武線伊勢崎線直通

      さて、肝心の半蔵門線です。新玉川線は1977年に開業しましたが「半蔵門線」が開業するのは翌年1978年のことです。当初は渋谷〜青山一丁目2.7kmという非常に短区間の開業となりました。開業が遅れた要因としては九段下付近での地下鉄建設反対運動があり、地下鉄の建設が単純に喜ばれるだけの時代は終わり、騒音や振動など公害問題として取り上げられる時代の象徴にもなりました。

      半蔵門線は永田町、半蔵門、三越前と徐々に路線を延長し、1990(平成2)年に水天宮前まで開業します。水天宮前駅はT-CATという羽田空港、成田空港へ直結するリムジンバスのターミナルと直結しており、地下鉄からの空港アクセスという新しい役割も与えられました。

      半蔵門線の次の転機は1985(昭和60)年で、住吉、錦糸町を経由して押上まで延伸し、東武伊勢崎線と直通するという新しい計画が浮上しました。水天宮前〜押上間の延伸部分は2003年に開業し、東武線方面からの新しい都心アクセスとして利用が年々増加しています。東急田園都市線と東武伊勢崎線をつなぐバイパス的な役割となった半蔵門線では、田園都市線中央林間駅から東武日光線南栗橋駅まで100kmを超える長距離直通運転も実施されています。終点の押上駅では建設中の東京スカイツリーとも直結し、今後のさらなる発展が期待されている路線のひとつです。


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      第10回 都営新宿線〜ニュータウンが生んだ地下
      第9回 有楽町線〜小竹向原で会いましょう
      第8回 千代田線〜5方面作戦と地下鉄増強
      第7回 南北線〜21世紀へむけて「未来の地下鉄」を
      第6回 都営三田線〜欲望と裏切りに翻弄された悲劇の路線
      第5回 東西線〜国鉄のバイパス線から郊外路線へ
      第4回 日比谷線〜相互直通運転と郊外私鉄の発展
      第3回 浅草線〜東京都、悲願の地下鉄参入
      第2回 丸ノ内線〜郊外から都心に向けて
      第1回 銀座線〜日本初の地下鉄
      第0回 地下から東京を見てみよう
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        第10回 都営新宿線〜ニュータウンが生んだ地下鉄


        「10号線」争奪戦

         今回は10号線「都営新宿線線」のお話です。前回ご説明したとおり8、9、10号線は、1962(昭和37)年から1972(昭和47)年までの計画検討の過程で、路線番号が入れ替わっています。今回も注意してご覧ください。

         前回8号線「有楽町線」の紆余曲折を振り返りました。実は今回紹介する10号線は8号線と密接な関わりを持っています。前回と重複する部分もありますが、丁寧に追っていきましょう。これまで触れてきたとおり、1962年に5〜10路線が追加され、既存の地下鉄(1〜5号線)をサポートしつつ、郊外化がすすむ東京をより広範囲に網羅する地下鉄網の整備が始まります。

        第10回の1

         当初の計画では4号線「丸ノ内線」をそのまま成増方面に延伸する予定でした。ところが車両が小さくて短い丸ノ内線では輸送力不足が明らかなうえに、沿線の人口増大で東武鉄道、西武鉄道のターミナルである池袋駅の混雑は激化する一方でした。池袋でさらに旅客を拾うとなると丸ノ内線は完全にパンクしてしまいます。
         そこで、特に輸送力が逼迫していた西武池袋線の救済のために計画されたのが最初の「10号線」でした。これが1962年のことです。中村橋から目白を経由して錦糸町まで都心を横断するこの路線は、今の地下鉄網からすると全く想像のつかない路線だと思います。

         ここで営団地下鉄と都営地下鉄の間に10号線の免許争奪戦が勃発します。1956(昭和31)年に念願の地下鉄建設参入を果たし、1962年に6号線「三田線」の建設が決定した東京都交通局は、その次の建設路線を確保せんと、1964(昭和39)年に7号線(のちの南北線)と10号線の免許を希望します。

        西武鉄道・東武鉄道・営団連合の逆転勝利

         ところがこの東京都の動きを嫌がったのが当の西武鉄道でした。後発組で技術的信頼性が低く、お役所意識が強く地元の意向に左右されやすい東京都よりも、着実に地下鉄を建設してきた営団と組みたいと考えた西武鉄道は、東武鉄道と営団に声をかけて「工作」を始めます。
         営団としても主要ターミナルである池袋を東京都に取られるわけにはいきません。また、丸ノ内線をそのまま延伸する計画が技術上不可能となった以上、別線で池袋以遠を建設しなければならないという事情もありました。
        東武鉄道も池袋を経由して都心に直通できる新線構想に賛同し、1968(昭和35)年の答申で成増と練馬から池袋を経由して都心に至る新路線10号線改め「8号線」が制定されました。ここまでが第9回を別角度から見たおさらいです。

        第10回の2

        ニュータウンの足へ

         では東京都が希望していた免許はどうなったか。ここで新しく制定されたのが新10号線「新宿線」です。これは京王帝都電鉄(現京王電鉄)との直通運転を前提とした路線で、新宿から皇居の北側を横切り、旧10号線東側のルートをたどるようにして住吉方面に至る路線でした。
         なぜ突然京王帝都電鉄との直通運転が浮上したかというと、1965(昭和30)年に多摩ニュータウンの開発が決定し、ニュータウンに直結する鉄道として京王線が選ばれたという背景がありました。東京都の大事業として、ニュータウン直結鉄道を都自ら手掛けることになったのです。
         しかし、ここで最大の問題が立ちふさがります。京王線のレールの幅(軌間)は1,372mmという珍しいもので、これはかつて東京都の路面電車が使用していたサイズでした。京王線としては当初路面電車との直通運転をもくろんで採用した軌間でしたが、路面電車が次々と消えていく時代においては全く意味のない規格になってしまっていたのです。レールの幅が違うということは電車の部品が異なってきますし、直通先も限られてくるため、東京都としては非常に迷惑な話です。ただでさえ浅草線と三田線が違う軌間になってしまったのに3種類目の規格導入となっては保守部門も困るばかりです。
         東京都は京王帝都電鉄に1,435mmの標準軌への改軌を打診しますが、輸送量が増えてしまった今となっては費用的にも工期的にもレールの幅を変えられることは不可能です。結局東京都は3つ目の別規格の地下鉄を抱え込むことになってしまったのです。

         その後新宿線は東側に線路を伸ばしていき、江東区、江戸川区と陸の孤島を突き進み、ついに東京都の路線として初めて千葉県の八幡にまで到達します。一時はその先千葉県営鉄道となって千葉ニュータウンまで延伸する壮大な計画もありましたが、景気の低迷、千葉ニュータウンの開発失敗によって頓挫し、今の本八幡止まりとなっています。

        第11回の3

         それでも都営新宿線は、JR総武線、京葉線、東京メトロ東西線とともに城東地区の交通を支える重要な路線として立派な都民の足として活躍しています。


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        第9回 有楽町線〜小竹向原で会いましょう
        第8回 千代田線〜5方面作戦と地下鉄増強
        第7回 南北線〜21世紀へむけて「未来の地下鉄」を
        第6回 都営三田線〜欲望と裏切りに翻弄された悲劇の路線
        第5回 東西線〜国鉄のバイパス線から郊外路線へ
        第4回 日比谷線〜相互直通運転と郊外私鉄の発展
        第3回 浅草線〜東京都、悲願の地下鉄参入
        第2回 丸ノ内線〜郊外から都心に向けて
        第1回 銀座線〜日本初の地下鉄
        第0回 地下から東京を見てみよう
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          第9回 有楽町線〜小竹向原で会いましょう


          路線番号の入れ替え

           今回は前回から一つ戻って8号線「有楽町線」のお話です。8、9、10号線がややこしいのは、1962(昭和37)年の運輸省都市交通審議会6号答申で示された8〜10号線と、1968(昭和43)年の都市交通審議会10号答申で路線番号が入れ替わっているからです。これは、運輸省(国主導の系統)が示した計画番号と、戦前の東京の都市計画路線1〜5号線の後継として告示された建設省(地方自治体主導の系統)の路線番号にずれが生じたからだといわれています。結果的には伝統的な計画番号である東京の都市計画路線の番号に1968年から統一されることになります。これからも特に言及しない場合は原則として現在使われている呼称をもとに記述していきます。

          丸ノ内線延伸計画

           有楽町線も非常に紆余曲折とした歴史をもった路線です。また、非常に複雑な運転形態をとっていることでも知られています。現在は13号線「副都心線」と一部区間を共有しながら、東武鉄道、西武鉄道と直通運転を行っており、将来的には東急東横線にも乗り入れることが決まっています。

           この有楽町線も、前回ご紹介した千代田線と同様に最初の地下鉄1〜5号線をサポートするために作られた路線です。池袋と東京を直結した丸ノ内線は瞬く間に大混雑路線となりました。最大6両編成という前時代的な規格だったこともあり、列車を増便しても一向に混雑が解消しません。一方、山手線を超えて拡大する東京に対応するべく、池袋以遠の郊外まで地下鉄を整備しなければならないという課題も浮上していました。

           1946(昭和21)年の時点で、戦災復興院は丸ノ内線(4号線)は小竹向原を起点に建設するよう計画変更していましたし、1962年にはさらに延長して成増までの建設が提言されています。しかし、前述のように既に丸ノ内線の小型車体の規格では輸送力の限界を迎えていたため、丸ノ内線の延伸ではなく、同じコースに新線を建設する方針に転換します。それが1968年のことでした。

           有楽町線は1974(昭和49)年に池袋〜銀座一丁目で開業しました。これにより丸ノ内線の混雑緩和がなされるとともに、皇居の西側を通る初めての地下鉄ができ、地下鉄のネットワークが拡大しました。

          9回幅620

           有楽町線は丸ノ内線の代わりに池袋から先に延伸し、小竹向原で練馬方面と成増方面に分岐して、西武線・東武線それぞれにアクセスします。第6回で触れたように、この時点では東武東上線は6号線(三田線)との直通を想定していたからで、有楽町線はあくまで成増を起点として計画された路線でした。

          「西武有楽町線」の怪

           この前後に地下鉄直通に向けて強烈な働きかけをしたのが西武鉄道といわれています。『鉄道ジャーナル 2007年1月号』で元西武鉄道常務取締役の長谷部和夫氏がそのいきさつを語っています。西武といえば堤、東急の五島の永年のライバルでもありました。五島の息のかかった運輸省を嫌った西武は地下鉄乗り入れ競争に出遅れてしまいます。実際、西武鉄道は東京を走る大手私鉄としては最も遅い平成10年まで地下鉄との直通運転を実施していません。
           そこで、東武鉄道とも協同して運輸省に働きかけを行い、練馬〜小竹向原を自力で「西武有楽町線」として建設する形で、1972年の都市交通審議会の答申で8号線の西武池袋線乗り入れと、東武東上線と乗り入れる13号線が新設されます。その結果6号線が裏切られる形になったエピソードは第6回で触れたとおりです。

           ところが、南北線と同じ理屈で、都心に向かわない地下鉄路線は優先順位が低く、なかなか出番が回ってきません。13号線とは名前ばかりの存在となり、和光市〜小竹向原〜池袋も8号線「有楽町線」として開業、1988(昭和62)年から東武東上線との直通運転を開始します。小竹向原から分岐して練馬に至る「西武有楽町線」もそれから遅れること10年、1998(平成10)年に西武池袋線と直通運転を開始します。
          都営浅草線(泉岳寺・京急方面と西馬込方面)や営団丸ノ内線(荻窪方面と方南町方面)のように地下鉄路線が分岐するのは珍しいことではありません。ところが幻のまま終わるはずだった13号線が突如実現し、2つの路線が2つの路線に乗り入れることになった時に小竹向原で何が生じたか、それはまた最終回で語ることにしましょう。


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          第8回 千代田線〜5方面作戦と地下鉄増強
          第7回 南北線〜21世紀へむけて「未来の地下鉄」を
          第6回 都営三田線〜欲望と裏切りに翻弄された悲劇の路線
          第5回 東西線〜国鉄のバイパス線から郊外路線へ
          第4回 日比谷線〜相互直通運転と郊外私鉄の発展
          第3回 浅草線〜東京都、悲願の地下鉄参入
          第2回 丸ノ内線〜郊外から都心に向けて
          第1回 銀座線〜日本初の地下鉄
          第0回 地下から東京を見てみよう
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