江戸の話 十三 (完)


 当<江戸の話>、今回で一区切りである。とはいえ、もとより落としどころを考えて書き始めてはいない。今回も『酒井伴四郎日記』である。書くことはいつもと代わり映えしない。
 まずは、前回まで二回にわたり扱った件の<叔父様>の話。あまりに一方的であるので、酒井が叔父様にかけた迷惑も紹介しよう。10月25日、酒井は外出し、どじょう・豚・ウナギなどで合わせて四合を飲み、長屋に帰る。
大ニ酔て帰り、うなぎ一切レツヽト焼芋ト土産を遣り、くた巻候処江・・・
とあり、ウナギや焼芋を土産に買って帰るのは良いが、酔ってくだを巻く。この時長屋には、叔父様も居た。更に面倒なことに、酒井がくだを巻いている最中、来客があった。翌月三日に御祝儀があるというので、「拝見ニ罷出候姓名明日中ニ差出候様ト達し有之」という用向である。ところが、
御返事を叔父様被成ニ付、予か酔て誠面白哥唄謡唄くだ巻候ハヽ、叔父ニ様大ニしかられ、腹も立無言ニ而(て)居る故、酒も不散候故歟(か)胸苦敷相成、皆吐出し、其後者前後不知、四ツ時比迄寝、夫ゟ(より)被越漸本式ニ寝候
とある。叔父様が応対をしているところで、酒井は面白く歌を唄い、謡を唄った。当然というべきか、叔父様に大いに怒られる。更に酒井、酔いが回ったものか気分が悪くなり、嘔吐した上、前後不覚になり寝入ってしまい、目覚めたのは夜半であった。上役としては迷惑この上ないし、長屋の同居人としても好ましくはない。長屋での共同生活、人それぞれ、様々な苦労があるのである。
 郷里を離れた江戸で、病に苦しめられることもある。例えば、酒井は四日間、出歩くのも困難な程の痛みに悩まされた。列挙すると、
夫ゟ琴春方江(へ)筋玉之痛をこらへ〻行、帰りニ者痛甚敷色々工夫いたし候而歩行故、下駄花緒切レ大ニ込る

今日ハ筋玉痛ム故、琴春方江者得不参

同筋玉痛何方江も得不参

筋玉痛候而大ニ難儀、其上また叔父様髪を結而呉ト被仰、いやトハ不被云大ニ難儀仕候
とある。「琴春」は、酒井の通っていた三味線の師匠である。「筋玉」は「きんたま」。我慢して稽古に出かけたものの、余りの痛さに、帰りは歩き方を工夫してなんとか長屋に戻ってきた。妙な歩き方であったのか、下駄の鼻緒が切れている。翌日からは、「筋玉」の痛さのあまり、出かけることができない。そんな中、叔父様に髪を結えと命じられ、断れない。
 勤番武士ならではの悩みもあった。勤番武士は原則単身赴任。郷里に妻子を残していることもある。酒井には二歳の娘がいた。幼い娘を残しての江戸勤務である。江戸での生活を楽しみにしつつも、やはり気にかかる。中山道を江戸に向かう途上でも、
夜之夢ニお哥又引付にて大ニ心配
と、娘の「哥(歌・うた)」が引付ける夢を見る。「又」とあるから、紀州に居る頃に実際に引付けたことがあるのであろう。江戸で生活を初めてからも、
お哥吐乳之夢を見る
とある。今度は娘の吐乳の夢である。

 これまで、<江戸の話>を書き連ねて来たが、人と人が関わる以上、今日と代わらない点も多い。勿論、今日とは異なる点も多い。過去を眺めるには、その両者を、共に意識することが肝要である。警句にもならないことを記したが、今回の小連載、読者を害するとことが無ければ幸いである。


是非、ワンクリックをお願い致します。
0

    江戸の話 十二


     前回は『酒井伴四郎日記』から酒井と<叔父様>の関係を見た。今回も叔父様絡みの話である。前回よりも更に俗っぽく、<金>の話だけを扱ってみよう。
     この叔父様、金に関する限り、問題のある人物のようである。10月29日には、
    又搗入大和屋儀兵衛来り、御扶持方之喰米残り勘定持来り、都合五両一歩三朱一分三り受取、其内為吉喰米二朱ト一匁五分叔父様ニ被取
    とある。扶持米を換金した際の総額「五両一歩三朱一分三り」。「三り」は「三厘」、銭三文である。叔父様は、この中から、為吉分の二朱強を懐に入れている。為吉は紀州から江戸まで付き添った従者であるが、既に帰郷していた。8月19日には、
    叔父様者(は)諸事付目多、紙くすの銭も御自分遣被成、直助立腹、又民助ニ梨子頼ミ被成八文之梨子三ツ買て帰り候ニ、只八文計御渡シ被成、民助者影ニ而(て)立腹、何ぞ御買被成候而も二ツ歟一ツ歟余けいに御取被成、又一文か二文不足銭を御遣り被成、皆不足たら〻、予ニ者中々筆語ニも難尽
    とある。酒井のみならず、直助・民助も叔父様には不満を抱いているようだ。一つ八文の梨を三つ買ってきても八文しか支払わない、共同で何か買う時には幾つか多く自分の物にし、数文支払いが少ない、という。十個千円の菓子を三人で買ったら、黙って四つ持って行く・三百円しか支払わない、という類である。
     <紙屑銭>の話は、数日前、8月16日に、
    扨(さて)又昼比(ころ)紙くずを二十文ニ而売り、其銭叔父様取置被成候
    とある。江戸には<紙屑買>が居り、反古や古帳・紙屑を買い取った。長屋での共同生活であるから、数人分の紙屑をまとめて売ったのであろう。話はずれるが、以前に書いた<山鯨>。これを小売する際には、傘紙の古紙を用いたようだ。『江戸繁昌記』には「前日麹街鬻ぐ所の肉、包苴するに必ず敗傘紙を用ゆ。今皆籜にす。」とある。「籜」は竹皮。以前は敗傘紙を用いたが、今では竹皮で包装する、という。閑話休題。叔父様は、屑紙を売った銭をすべて自分の懐に入れたようだ。
     叔父様は叔父様で、酒井の金勘定の細かさを面白く思っていない。8月24日には、障子の張替えの費用を巡って悶着がある。叔父様は一人当たり二百八十文と計算した。酒井は二百七十八文と計算した。その差、二文である。叔父様は、
    其様なこまかい事勘定出来る者歟(か)、わすか二三文之事すいた様ニセよト、大ニ腹立被成候、
    と酒井の細かさに立腹している。8月18日にも、
    直助咄ニ叔父様被仰候ニ者、伴四郎者毎日〻そろばんを一文之事ニ而も取立をする・・・ト被仰候由、直助者叔父様をきらい故、何も角も予ニ内証事者皆聞し呉候
    とある。叔父様は酒井が毎日毎日そろばん勘定をし、一文にもこだわって請求をしてくるのが気に入らなかった。このグチを聞かされた直助は、その内容を酒井に伝える。叔父様が直助に語った内証事は、酒井に筒抜けであった。叔父様の言うことも分からないでは無いが、叔父様がいつも「一文」を多めに支払っているならば、酒井もグチを記す必要はない。不足しているからこその不満なのである。
     酒井、江戸に連れてきて貰った恩もあり、叔父様に強く出ることが出来ない。また、気に入らないからと言って、仕事を放棄して紀州に帰ることもできない。叔父様の無体な要求にも応えざるを得ないこともあった。9月30日には、叔父様が酒井に銭百文を預けた・預けないという言い争いが行われる。酒井には、預かった覚えはなかった。しかし、それで話は終わらない。
    ・・・とんと予之不知かヽハり無事を、皆予ニあびせかけ、押而予か間違て受取候銭を、我銭之中へ交候たのて有ふト被仰候故、わすかの銭ニ而彼是申もきたなき事ト、損ト知りツヽ出し候、・・・大ニ損計いたし候・・・
     叔父様は、預けた銭を酒井が自分の銭と混ぜてしまったのであろうと言いつのる。酒井も、あれこれ言うのを諦め、損を承知で銭を叔父様に渡した。

     ここまで見ると、叔父様、あまりに傍若無人である。しかし、なにしろ『酒井伴四郎日記』である。嘘を書く必要は無いにしても、酒井の視点で描かれていることは差し引いて読まねばなるまい。日記を読むのは面白いが、事実の一班を含むにしても、それだけで全てが分かるものではない。当方も、万一日記が後世に残りでもしたら、現今をどれだけ誤解せしめるかと、不安にならないでもないのである。


    是非、ワンクリックをお願い致します。
    0

      江戸の話 十一


       正月もはや中旬、新年気分も抜ける頃である。今回から、再び『酒井伴四郎日記』を中心に、幕末勤番武士の生活を垣間見よう。
       これまで、江戸観光であったり、異人見物であったりと、比較的楽しげな記事を紹介した。酒井は勤番武士であるが仕事は殆どない。有り体に言えば、閑なのである。だから、江戸を歩き回っている。しかし、閑なら閑なりに苦労はあった。今回は、そんな苦労の一つである<長屋暮らし>を取り上げる。
       もっとも、勤番武士の長屋暮らしはむしろ当然、同時代的にみれば、それほどの苦労とも言えない。酒井の場合は、世話になっている<叔父様>と同居している点が気苦労の最たるものであった。
       では、酒井のグチを追ってみよう。7月23日には、
      叔父様髪を結而(て)呉ト被仰、いやトハ不被云大ニ難儀仕候
      とある。実はこの時酒井は体調不良であった。この話もいずれ書くと思うが、髪結をせよと叔父様に言われ、イヤと言うことも出来ずに苦労する。8月2日には、
      前夜ゟ大ニ気分悪し・・・夕飯時分大ニ気分悪敷、茶焚直助ニ代り貰・・・夫ゟ甚気分悪敷候ニ、叔父様薬煮じ看病大ニ難儀
      とある。これは、以前書いた鰹に中った話の翌日のことである。前日から気分が悪く、この日の朝食も食べられずにいた。夕刻にも体調は戻らず、茶の支度を他人にかわってもらう。その後もやはり体調は戻らなかった。酒井は、自分のこともままならないにも関わらず、叔父様用の薬を煎じる羽目になる。
       叔父様に頭が上がらないのは、単に叔父だからというだけではない。やる仕事も殆どないのに江戸に出てこれたのは、叔父様の力による所があるのだ。暫く後、酒井は、
      此地へ連て来て呉候ハヽ嬉しく候得共、其かハり家来がハり
      とグチを記す。いくら叔父・甥の間柄で、仕事の上でも上役であっても、家来代わりでは不満も抱こうものである。

       しかし、酒井の苦労、単に<家来代わり>であるからだけではない。この叔父様、かなりクセのある人物であった。たとえば、8月15日には、
      叔父様者何時之間ニやら予か日笠を指て御出被成、御自分之笠者取置、其上予が笠を被り被成、平気之事誠如何成事ニ而候
      とある。外出先で、叔父様が酒井の日笠をもっていってしまう。自分の日笠と間違えたのではない。自分の日笠は持っている。つまり、酒井の日笠を奪い取ってしまったのである。
       もっと日常生活に即した問題を列挙しよう。
      昼飯さいニこんふ煮候ハヽ、叔父様ニ半分いかれる

      昼飯ニ此程之こんぶ之残りを菜ニ煮候処、又叔父様ニ半分とらるヽ

      扨(さて)又十六文之にんじを安故煮置、久敷度々飯之さいニいたし候ハんト煮候処、叔父様之飯之さいニ成、大方被喰仕廻、予一度之さいニも足ぬ程ニ成、やれ〻買置者こり〻、徳をせんとて却而損忘〻〻
       酒井は頻繁に外食をするが、生活の基本は自炊である。叔父様は、酒井が作った飯の菜を遠慮無く奪い取って行く。ニンジンを菜にしようと煮込んでおいたら、殆ど叔父様に食べられてしまった。作置きをして倹約しようとしたのに、却って損をしたと酒井がこぼすのも無理はない。
       楽な仕事と江戸見物の代価として高いのか安いのかは判じがたい。しかし、家来代わりはともかく、食物にまで手を出されるとなると、正直、当方には耐えられそうもない。


      是非、ワンクリックをお願い致します。
      0

        江戸の話 十


         江戸は多くの人の集まる都市である。多くの人が集まれば、農村などでは成立し得ない商売も成立した。今回は、江戸時代の、少し変わった商売の話である。
        第十回
         まずは、<わいわい天王>である。毎回のことで芸はないが、『守貞謾稿』には、
        「其の扮猿田彦の仮面を着け古き黒定紋付羽織並びに袴をはき麁なる両刀を佩きたり其詞にわいわい天王さわぐがおすき云々衆童追行のとき紅摺の牛頭天王小牌を散す紙牌也」
        とある。猿田彦の仮面をかぶり、羽織袴姿で粗末な刀を帯び、「わいわい天王さわぐがおすき」云々とはやし立てた。子供がついてくると紙製の牌、要するにお札の類をまいて拾わせる。『日本書紀』に出てくる猿田彦大神、は其鼻長七咫、背長七尺余」とある。背丈は伸ばしようががないので、「鼻長七咫」に対応するように、長い鼻の仮面をかぶった。牛頭天王は、日本では行疫神とされるから、このお札は病除け、ということであろう。


         当然だが、お札をまくだけでは商売にならない。「而後毎戸乞一銭也」とあり、後で各戸から一銭ずつ貰うのである。宗教的とも芸能的とも押売りとも見えるが、大都市である江戸では商売として成立した。『江戸名所図絵』にも、説明は特に書かれていないが図絵に描かれている。

         『守貞謾稿』に記されたより悪質な商売に、<鹿島の事触>がある。
        「折烏帽子に狩衣着せる神巫一人襟に幣帛を挟み手に銅拍子を鳴し鹿島大明神の神勅と称し当年中に某々の天災あり或は某々の疾病流行す免之と欲せば秘符を授くべし等の妄言を以て愚民を惑し種々の巧言を以て頑夫を欺き金二朱或は一分或は二三百文の銭を貪り取る也」
        とある。天災や疫病から逃れたかったら御符を買え、ということである。「鹿島大明神の神勅」という時点で怪しいが、信心の篤い者は無視し難い。「巧言を以て頑夫を欺き」というのだから、口も上手いようだ。実にたちが悪い。何より、<わいわい天王>より遥かに高額で、数百文から金一分も巻き上げた。なお、「実に鹿島より来るにはあるべからず」とあるから、鹿島信仰とは無縁では無いが、鹿島神宮と直截の関係はない。

         最後に、もう少し俗っぽい商売を紹介しよう。『酒井伴四郎日記』には、
        「夫ゟ(より)両国橋へ行、小天窓又おめこのさねにて俵半鉦を釣り、跡ニ而(て)両人角力取、又隣に十四五之子供惣躰やせ候ニ足者すねゟ下ハ廻一尺計り、足の台者長ケ一尺計、幅者五寸余、厚サ三寸計り之者暫ク踏り、又十五六計之女ト角力を取ル、其跡ニ而廿才計之女玉門を出し、一人の男はりかたを遣ふ、女腰を遣ひ何レも面白し」
        とある。両国橋付近で行われていた女相撲その他見世物の記述である。陰核に物をつるしたり、淫具をつかい腰を動かしたりと様々であった。当然、単に行為を露出しているだけでは金にならないから、これは興行である。今日から見れば色々な意見もあろうが、少なくとも勤番武士が見る程には膾炙したものであった。

         こうした種々の商売も江戸時代の生活の一部である。存続しているわけでもなし、今日の倫理観や法で云々するのではなく、江戸の清濁をともに楽しむ方が面白い。もっとも、<鹿島の事触>が今日あっても、貧乏書生たる当方、手ぶらでお帰り戴くしかないのだが。


        是非、ワンクリックをお願い致します。
        0

          江戸の話 九之二


           さて、前回に引き続き、江戸の年末年始の話である。先ずは、年末。<熊手>の話である。『守貞謾稿』には、熊手
          「十一月酉の日江戸にて今日を酉の町と号し鷲大明神に群詣す此平日詣人なく唯今日のみ群詣して富貴開運を祷ること大坂の十日戎と同日の論又群詣も可比して而も十日戎の盛に及ばず。」
          とある。江戸時代も、熊手は酉の市で扱われるものであった。
          「蓋熊手を買ふ者は遊女屋・茶屋・料理屋・船宿・芝居に係る業体の者等のみ・・・其大なるを好とす・・・大なるは長一丈許、小なるは一尺許也。小なる物には於福(おふく)仮面のみを付る。」
          とあるから、大きい熊手の方が好まれた。しかし、一丈程の熊手を飾るのは、どういった店であったろう。

           さて、この熊手、縁儀物で装飾されていなければ、掃除道具や農具と異ならないのである。飾物は、熊手の重要な要素であった。何で飾られていたかと言えば、
          「表之物を惣て縁儀物と云也。竹製のさらひに宝船・米俵・金箱・包金・金的・矢・しめなわ・於福仮面・玉茎・戎大黒・土像等の類を付る。」
          とある。御多福の面、矢と的、金箱等は今でも見える。しかし今の熊手に玉茎は飾られていたか、覚束ない。『酒井伴四郎日記』にも11月8日にも、
          「夥敷(おびただしき)参詣群集、爪之立所も無之候、扨(さて)此祭者(は)御国之十日恵美須(えびす)之類ニ而(て)、売物ハさらへに俵・御多福・大帳・的ニ矢・男根、何やかや色々之目出度物を括り付有之」
          とある。男根(玉茎)は、幕末江戸の飾り物としては、一般的であったのかも知れない。今年の酉の市では、よくよく観察してみるとしよう。

           次は、年始の話である。門松の話をしようとも思ったが、最近聞かない<喰積>の話をすることにした。『守貞謾稿』には、正月の風習として「蓬莱」がみえる。蓬莱山をかたどった祝儀物である。江戸ではこれを喰積(くいつみ)と呼んだ。喰積
          三方に中央松竹梅・・・三方一面に白米を敷もあり。其上に橙一ツ、蜜柑、橘、榧、搗栗、萆薢、ホンタワラ、串柿、昆布、伊勢海老等を積む。注連縄の飾と同物なれども池田炭はなし。裏白、ゆつる(り)菜、野老、神馬藻を必ず置之・・・江戸の喰積は正月初て来る客には必先づ出之、客も聊か受之く。一揖すれば元の所に居へ置く也。
          とある。単なる飾り物ではなく、年始の客に出し、客も少しだけ受け取って、一礼ののち、元の場所に戻す。「喰積」の名の由来は、「春の始に食て薬となるべき物のみ取集めて客も主も物語しながらつまみとりてくひしゆへ」というから、かつては主客で食べたようだ。

           薬であるというから、味は期待できまい。もっとも、味が良いからと、毒を食べて心身を損ねる必要はない。この「江戸の話」も、一月末で一区切りである。その間に味を良くすることができるかは、些かならず心許ない。だが、せめて毒にならぬように精進したい。


          是非、ワンクリックをお願い致します。
          0
            是非クリックお願いします

            表示中の記事
            Amazonリンク
            カテゴリ
            検索
            メールフォーム
            ご感想等はこちらからお願いします
            過去記事
            プロフィール
            リンク
            そのほか
            Mobile
            qrcode
            Powered by
            30days Album
            無料ブログ作成サービス JUGEM