第12回 東京のいまとこれから(最終回)


東京に集う人々

 1960(昭和35)年から5年に1度、首都圏、中京圏、近畿圏の各都市圏の交通利用状況を把握するために「大都市交通センサス」という調査が行われています。この大規模調査を通じて現在の東京を中心とした人の動きを見ることができます。2010(平成22)年に行われた第11回調査の集計結果が先日発表されたので見てみましょう。

 下のグラフはそれぞれの都市圏における一日の鉄道輸送人員を示しています。驚くべきことに首都圏では一日に4,070万人が鉄道を利用しています。そしてその規模は中京圏の310万人/日、近畿圏の1,260万人/日と比較して突出していることが分かります。首都圏の人口が約3,500万人、中京圏の人口が約1,000万人、近畿圏の人口が約1,900万ということを考えると、首都圏の人の動きがいかに鉄道に偏重しているかということが分かるでしょう。

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 ただし、ここで示されている利用者は各路線の往復の利用者を合計した延べ人数であって、実際に一日に4,000万人が動いているわけではありません。東京に集う実際の人数は以下の評価ら確認することができます。

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 東京23区に到着する人員の合計は487万人、うち埼玉県から80万人、千葉県から72万人、神奈川県から92万人、東京都下から58万人が23区に来ていることが分かります。つまり毎日合計300万人が23区を越えて都心に通勤していることになります。この郊外からの圧倒的な流入量が他の大都市ニューヨークやパリ、ロンドンと東京の大きく異なる点です。

 私たちは毎朝決まった時間に起きて、家を出て、電車に乗り学校や会社に向かっています。直線距離で30〜40kmも離れた場所に、到着時間を疑いもせず毎日通っているのです。ましてや家を出るときにもしかするとこのまま帰ってこられないかもしれないと心配する人はいないでしょう。
そんな300万人が毎日「東京」に通っている「日常」がいかに脆いものであるかということを我々に知らしめたのが、2011年3月11日の東日本大震災や2011年9月に首都圏を直撃した台風15号による「帰宅難民」の発生でした。鉄道が止まると家に帰ることもできない。私たちはそんな当たり前の事実に直面したのです。

半径一時間の世界

 交通センサスは通勤・通学に要する平均時間も調査しています。この数値は電車に乗っている時間ではなく、家から駅まで(アクセス時間)と駅から目的地まで(イグレス時間)を合計したドアtoドアの時間です。

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 首都圏の通勤者の平均所要時間をみるとここ10年で若干増加傾向にあるものの、ほぼ60分台で推移していることがわかります。中京圏、近畿圏ではきれいに60分という数字も出ています。これまで見てきたように、私たちはいつの時代も半径60分の世界に生きてきたことがわかります。さらに古い調査からの推移を追ってみましょう(出典「第10回大都市交通センサス」より)。

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 1970(昭和45)年に約2,400万人だった東京圏の人口は、現在約3,500万人にも達しています。オイルショック等を契機とする1970(昭和45)年から1975(昭和50)年までの急激な都市構造の変化(ニュータウンの建設促進や大学キャンパスの郊外化)を例外とすれば、その間私たちの平均移動時間はほぼ同水準を保ちながら、都市だけが外縁へと伸び続けていったのです。
 1970年以降に23区内とその周辺で建設された路線だけで以下の距離になります。さらに東北新幹線や上越新幹線、長野新幹線も開業し栃木や群馬から新幹線通勤をすることもできるようになりました。その他にも国鉄(JR)や各社私鉄、地下鉄など様々な鉄道事業者が輸送力増強工事をすすめ、さらに高速に、さらに大量輸送できるように発展を遂げてきました。そうして今の東京が作り上げられてきたのです。

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 首都直下型地震への備え、帰宅難民への対応、一向に解消しない満員電車。歴史が積み上げてきた東京への都市機能一極集中は必ずしも良いことばかりではありません。今では負の側面で語られることのほうが多いでしょう。ある意味では世界で最も効率的に集積された、ある意味では最も無計画に詰め込まれた、この奇妙な都市「東京」を振り返るときに、それをこれからどうするにせよ、私たちが歩んできた道を確認せずには始まらないのです。

 さあ、東京をめぐる150年分の半径一時間の旅はそろそろお終いです。今回も3ヶ月12回にわたるお付き合いありがとうございました。またお会いしましょう。

【主な参考文献】
「人口から読む日本の歴史」鬼頭宏
「歴史人口学で見た日本」速水融
「明治の東京計画」藤森照信
「東京の都市計画」越沢明
「幻の東京赤煉瓦駅」中西隆紀
「丸の内の歴史」岡本哲志
「工学博士藤岡市助伝」工学博士藤岡市助君伝編纂会
「甲州財閥物語」テレビ山梨
「日本近代都市計画の百年」石田頼房
「都市交通の成立」三木理史
「近代日本の大都市形成」鈴木勇太郎
「日本私有鉄道史研究 増補版」中西健一
「交通調整の実際」鈴木清秀
「メトロポリスの都市交通」東京市政調査会
「東京圏のあゆみと未来」東京圏鉄道整備研究会(森地茂)
「馬車鉄から地下鉄まで」東京都広報普及版編纂室
「東京市電気局三十年史」東京市電気局
「東京都交通局四十年史」東京都交通局
「都営交通100年のあゆみ」東京都交通局
「東京都営地下鉄建設史」東京都交通局
「営団五十年史」帝都高速度交通営団
「日本国有鉄道監査委員会10年のあゆみ」日本国有鉄道監査委員会事務局
「東京市区改正委員会議事録」東京市
「東京市史稿(市街篇)」東京都公文書館
「東京市内外交通に関する調査書(http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/m_jsce/05-03/05-3-11172.pdf)」
「第10回大都市交通センサス(http://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/kotu_census10/daitosikoutuusennsasu.html)」
「第11回大都市交通センサス(http://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/transport/sosei_transport_tk_000034.html)」


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第11回 都心直通時代
第10回 郊外電鉄の発展と大東京市の成立
第9回 都市計画と関東大震災
第8回 電車時代と生活圏の拡大
第7回 電車の時代
第6回 1890s Railway Mania(鉄道建設狂時代)
第5回 東京都市改造計画
第4回 馬車鉄道の時代
第3回 「首都東京」を中心にした鉄道の発達
第2回 「東京」の誕生と新しい交通機関
第1回 江戸から東京へ


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    第11回 都心直通時代


    省線電車が先導した郊外化

     前回は鉄道網の整備による東京の郊外化を取り上げました。現在につながる大手私鉄の路線のほとんどは1920〜30年代に整備されたものです。郊外から都心に通うことができるようになり、また日本の商工業の発展によって都市部では職住分離の生活(サラリーマンの誕生)が一般的になることによって、東京は関東大震災を乗り越えて巨大都市へと変貌を遂げていきます。
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    しかし、ここで注意しなければならないのはこの時点では私鉄は東京における補助的位置づけでしかなく、東京の郊外化を牽引していたのは巨大な輸送力を持った鉄道省の電車、通称「省電」だったということです。

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    前回引用した「日本近代都市計画の百年(石田頼房)」の図に国有鉄道の路線図を重ねてみましょう。東京の中心部を囲むように各方面に広がっていく幹線は、1930年代までにほぼ主要区間の電化が完了します。1925(大正14)年には山手線の環状化が完了、1932(昭和7)年には総武線の御茶ノ水〜両国駅間が開通し、都心を貫通する十字の鉄道網が整備されます。1925年までに市街化(ここでは50人/ha以上)したエリアは国有鉄道沿線が中心であることが分かります。これは前回も触れたように、戦前の時点では都心に直通する都市高速鉄道は省線電車の他には現在の地下鉄銀座線しかなく、他は路面電車とバスに頼るしかなかったからです。都心まで直通し、運賃も安かった省線電車の沿線から開発が進むのはいわば必然だったのです。

    東京都市圏の成立と都心直通鉄道の整備

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    郊外化の進展は人口の推移からも見て取ることができます。日本初の国勢調査が行われた1920(大正9年)の東京市15区の人口は約280万人でした。1920年だと既に郊外化が始まりつつありますので、東京市の周辺町村の人口(ピンク色の部分)も増え始めています。東京市の人口は関東震災前の約280万人がピークで、現在に至るまでそれを超えることはありません。震災後初の国勢調査となる1925年の調査では周辺町村の人口が東京市の人口を超えています。1932年に東京市は周辺町村を編入し20区を新設し、大東京こと東京35区を成立させます。その後も東京35区の人口増大は同じペースで増え続けていることがわかります。

     拡大し続ける大東京は戦争によって廃墟と化します。下町は震災復興からわずか15年で再び焼け野原となりました。戦争からの疎開、被害によって東京の人口は大きく減少しますが、終戦から10年が経過した1955(昭和30)年には早くも全然の規模を回復していることが分かります。現在の東京23区は旧東京市35区をほぼ踏襲した範囲ですので、その後の人口推移をそのまま追ってみると1965(昭和40)年の約890万人がピークとなり、今に至るまでほぼ頭打ちの状態が続いています。そこから先は東京の多摩地方(市部)や埼玉、千葉、神奈川といった周辺自治体の人口が急増していることがわかります。高度経済成長を迎え、東京への一極集中は更に加速し、地方から「金の卵」たちが次々に東京へと集まってきました。

     急増する東京都市圏の人口に対し、鉄道の整備は後手後手に回りました。
    国鉄も増え続ける輸送需要を前に、これまでの都市間交通、地方幹線整備重視の姿勢を改め、東京の鉄道整備に本腰を入れることになります。東北・高崎線、常磐線、総武線、東海道・横須賀線、中央線といった放射5路線の輸送力増強計画「通勤五方面作戦」が遂行され、各路線の複々線化、三複線化、別線建設など莫大な設備投資がなされました。
    同時に帝都高速度交通営団、東京都による地下鉄建設も急ピッチで進められ、日比谷線以降の各路線は私鉄との相互直通運転を基本とし、郊外私鉄の都心直通運転が実現することとなります。1960年代末までに丸ノ内線、日比谷線、浅草線、東西線、千代田線、三田線の6路線が建設され、東西線と千代田線は国鉄の五方面作戦とも連携して都心へのバイパスルートを形成しました。

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      全ては都心へ。こうして「東京」は飽和を迎え、半径1時間のエリアは県境を超えて広がっていくのです。東京都市圏はさらに成長を続け、ついには人口3500万人を擁する世界一の都市圏に成長しました。これはダントツの世界一であり、2050年に至っても中国やインドに抜かれることなく世界一の都市圏でありつづけるだろうと予測されています。

     東京への一極集中は様々な弊害をもたらし、今日では都市機能の分散が叫ばれていますが、裏を返せば前代未聞の巨大都市圏の成立を可能にしたのは、都心から次第に郊外に、県外に伸びていった大量高速輸送機関である電気鉄道の成立と発展があったからこそなのです。




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    第10回 郊外電鉄の発展と大東京市の成立
    第9回 都市計画と関東大震災
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    第5回 東京都市改造計画
    第4回 馬車鉄道の時代
    第3回 「首都東京」を中心にした鉄道の発達
    第2回 「東京」の誕生と新しい交通機関
    第1回 江戸から東京へ


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      第10回 郊外電鉄の発展と大東京市の成立


      関東大震災が加速させた郊外化

       1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災によって東京の下町はほぼ焼き尽くされてしまいました。焼け出された人々と帝都復興計画により建築制限、区画整理を行ったため、東京市の人口は一時大きく落ち込みます。1922年に249万人まで膨れ上がった人口は、1923年には153万人まで減っています。その後、東京市の人口は復興と共に再び増加を始めますがついに震災前の基準に回復することはありませんでした。では人々はどこにいったのか。東京市民の流出先こそが開発のはじまっていた山手エリアだったのです。
       東京市周辺82町村の人口は1920年には118万人でしたが、1925年には219万人、1930年には290万人と急激に増加しています。この人口の拡大を示したのが以下の図です。
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      (出典:「日本近代都市計画の百年(石田頼房)」より「人口等密度線図の作成と二三の考察(杉山熙)」の図を加工したもの)

       この図は人口密度50人/ha以上の地域を市街地と定義し、その拡大を示したものです。網掛けの部分は当時の東京市域外を示しています。1872(明治5)年には皇居を取り囲む程度だった市街地が1920年代には東京市を超えて広く拡大していく様がわかります。1900年には東京市112万人、東京周辺82町村38万人だった人口は、1925年には東京市200万人。周辺町村210万人と対に逆転するに至ります。この人口増大を支え、加速させたのが、私鉄による郊外の鉄道建設でした。
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      この図は1920年代末の都心部路線図です。紺色の路線は1909年までに建設された路線、オレンジ色の路線は1910年代に建設された路線、赤色の路線は1920年代に建設された路線です。東京の私鉄網は1920年代にほぼ現在の形に整備されていたことが分かります。特に世田谷区周辺は1920年代に盛んに開発されていたことが分かります。最も有名なのは現在の東急グループにつながる田園都市株式会社と目黒蒲田電鉄(後の東急目蒲線、現在の目黒線・東急多摩川線)を中心にて開発、分譲された「田園調布」でしょう。

      私鉄と山手線がもたらした郊外化

       この時代は鉄道の形態にも大きな変化が生じています。これまでは長距離運転をする列車は蒸気機関車がけん引する客車、短距離運転をする電車は路面電車のような小型の車両でしたが、郊外を高速度で運転できる大型の電車が登場しています。
       これは1900〜1920年代にアメリカで隆盛を極めた「インターアーバン」という都市間高速電車を模したもので、1910年代に京成電気軌道や京王電鉄などが、1920年代にはさらに車体を大型化、高速化した目黒蒲田電鉄、東京横浜電鉄(現東急東横線)、西武村山線(現西武新宿線)、小田原急行電鉄(現小田急線)といった路線が開業しています。また東武鉄道、東上鉄道(現東武東上線)、武蔵野鉄道(現西武池袋線)といった蒸気機関車で開業した路線の電化も進みます。電車による高速、高頻度運転は郊外からでも短時間で東京都心への移動を可能とし、東京の郊外化を加速させることとなりました。

       ところでこの時代に開発された鉄道をみると西部に多く開業していることが分かります。ひとつは武蔵野台地に開発の余地が多かったこと、大きな河川がなく建設費を比較的押さえられたこと、そして都心部への最終的な輸送手段としての山手線に接続することができたということが挙げられます。対する下町側は元々市街地で建設余地が少なかったことと、河川が多く建設費が増大してしまうこと、そして都心へ自力で路線を延伸しなければならなかったという事情がありました。東部に路線を延ばしていた東武鉄道や京成電気軌道は市内へのターミナル延伸に大きな苦労をし、浅草進出を巡っては京成が汚職事件を引き起こすという事態にまで至っています。大手町、丸ノ内、有楽町、日本橋といった「都心部」へ直通する山手線の存在は、私鉄を発展させる「培養」として大きく作用しました。池袋、新宿、渋谷といった私鉄のターミナルが繁華街として発展をしはじめるのもこの頃のことです。
       しかし、各方面から運ばれてくる私鉄の旅客を、山手線・中央線だけで運ぶことはできません。旧態依然とした路面電車での輸送も限界があります。関東大震災以降はバスが新しい交通手段として台頭してきますが、鉄道の輸送力をそのまま肩代わりできるようなものでもありません。そこで浮上してくるのが新時代の都市交通機関「地下鉄道」だったのです。

      高速度交通の時代

       日本初の地下鉄は1927(昭和2)年に上野〜浅草間で開業した東京地下鉄道線、現在の銀座線です。この路線は浅草から上野を経て新橋まで中央通りの下を都心の中心部を貫くように建設されました。東京一の繁華街浅草と北のターミナル上野駅、そして銀座を通り、南のターミナル新橋駅を結ぶ都市の大動脈として計画された路線であり、浅草〜新橋間は1934年に全通しています。
       しかし、東京市第2の路線は後の東急グループ総帥となる五島慶太が設立した東京高速鉄道が建設した渋谷〜新橋を結ぶ路線でした。これはターミナル駅渋谷と都心を結ぶために計画された路線で、浅草〜新橋間とは性格が異なるものでした。東京高速鉄道はさらに新宿〜赤坂見附を結ぶ支線の建設も計画しており、山手線まで運んできた私鉄の旅客を都心部に運ぶ交通機関として地下鉄を位置づけていたことが明確に伺えます。
       東京の地下鉄は、郊外からの輸送圧力が高まり都心部の高速度交通機関整備が求められた結果として建設が進められるのです。しかし戦前に完成した地下鉄は東京地下鉄道の浅草〜新橋間と、東京高速鉄道の新橋〜渋谷間のみでした。後に両社の路線は帝都高速度交通営団によって統合され、地下鉄建設は営団の手に委ねられることになります(東京の地下鉄建設計画の詳細は拙稿「東京十三路線物語」をご覧ください)。


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      第9回 都市計画と関東大震災
      第8回 電車時代と生活圏の拡大
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      第5回 東京都市改造計画
      第4回 馬車鉄道の時代
      第3回 「首都東京」を中心にした鉄道の発達
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        第9回 都市計画と関東大震災


        市区改正計画のその後

        前回は交通機関の整備と東京の人口のお話でした。路面電車が整備されるにつれ1904年には230万人、1914年には280万人と人口が増加し続けてきた背景を追いました。
        ところで連載第5回において、東京の都市計画について触れました。東京を欧米列強にならぶ近代的首都へと改造する「市区改正計画」です。1888(明治21)年8月に市区改正条例が成立し、あわせて「東京市区改正委員会」が設立されました。しかし、日本政府にも東京府にもお金がありません。国としては軍備拡張、地方のインフラ整備・開発で手一杯。東京市も上下水の整備や不燃化で手一杯、懸案だった路面電車市営化も外債を発行して買収資金を調達するほどの財政難でした。結局、1888年に制定された「市区改正計画」はほとんど進捗せず、1903(明治36)年に再度規模を縮小して「市区改正計画新設計案」が決定されることになります。

        新設計では道路の整備本数は4分の1、公園も3分の1程度と事業が大幅に縮小されましたが、鉄道だけは例外的に拡張され、東京市周辺部、中央部を含めた合計7本の路線が計画されました。1888年の市区改正原案では鉄道については上野駅と新橋駅を結ぶ南北幹線直結ルートのみ触れられていましたが、1903年といえば第7回で取り上げたように東京に初めて電車が走った年です。それまでの鉄道整備状況を踏まえ、市内交通も考慮された路線網が想定されるようになりました。現在の都心部のJR線の基本的な骨格はこの時点で計画された路線まで遡ることができます。
        新設計案が決定し、日露戦争を挟んで東京の成長にさらに拍車がかかると、東京市もあわてて本腰を入れて推進し、1911(明治44)年、ついに市区改正事業は完成を迎えます。今年100周年を迎える日本橋もこの時に市区改正事業の一環として建設されたものです。

        しかし、そもそもこの「市区改正計画」は東京市15区のエリアに200万人程度の人口を想定して組み立てられたものでした。しかも、それをさらに縮小してやっと完成したのが現実です。ところが1912(大正元)年には早くも東京市15区の人口は200万人を超えてしまいます。この時点で三多摩地方を除く郊外郡部の人口は約50万人程度です。そこから第一次世界大戦による好況を迎え、更なる人口の増加期に入るわけですから、東京の都市計画は完全に破綻していました。1920(大正9)年、日本初の国勢調査時に東京府の人口は既に370万人(東京市区237万人、郊外郡部100万人)近くにまで膨れ上がっていました。

        新しい東京の姿を目指して

         東京が飽和するにつれて次第に2つの動きが顕在化してきます。ひとつは「東京市15区の枠組みを越えて郊外に流れていく人の動き」、もう一つは「東京市15区内の交通を改善して都心の人の流れを改善しようという動き」です。1906(明治39)年に山手線の上野〜烏森(現新橋)駅間が電化され、1919(大正8年)年には万世橋〜東京駅間が開通し中央線中野駅〜山手線上野駅までが電車で結ばれます。それに呼応するように1910年代に入ると郊外に私鉄が次々と開業します。こうして人々が東京市の外部からでも都心に通えるような交通体系が整備されていきます。東京の郊外化です。

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        そしてもうひとつの動きは1903年の市区改正でも示されたように、都心部に鉄道を開通させて、交通問題を解決させようという動きです。今ではほとんど記録に残っていませんが、民間からも様々なアイデアが出されています。
        たとえば1906年、福沢諭吉の養子であり、後に「日本の電力王」とも呼ばれる福澤桃介が日本初の地下鉄道建設を出願しています。しかしこれは驚くに値することではありません。連載第6回で触れたように、1888年の段階で市区改正委員会において欧米先進諸国の大都市に地下鉄が建設されているという情報は既にありました。しかし1906年当時はまだ路面電車3社が統一されたばかりであり、地下鉄道建設も技術的な裏付けがあるものではありませんでした。福澤の出願は1911(明治44)年の路面電車市営化をうけて市内交通の市営化方針が決定されると、1913(大正2)年に却下されることになります。
         他方では1912(明治45)年に、東京の路面電車建設に尽力した立川勇次郎や藤岡市助らが品川から新橋、上野を経て浅草に至る本線と、新宿から新橋に至る支線からなる高架電気鉄道の建設を出願しています。しかしこれも新橋〜上野間は国有鉄道で建設するという従来方針により却下されています。他にも1913年には「高架単軌鉄道株式会社」という社名によるモノレールの出願もあったそうです。

        「郊外化」と「交通機関の高速化」の2点からなる問題提起は、東京市の交通問題を調査解決すべく1917年に設置された「東京市内外交通問題調査会」において見事に描き出されています。調査委員会は交通機関の発展によって商業地区中心地点(日本橋)より半径10マイル(約16km)が1時間圏となることで、東京府、千葉県の境界たる江戸川付近から埼玉県草加、鳩ヶ谷、蕨、そして北豊島と東京市西部郊外を通り神奈川県との境界たる多摩川付近までが「大東京区域(グレーター東京)」として設定され、この地域は今後30年(1949年)で700万人以上の人口を擁するエリアになるとしています。そして調査委員会は、市内中心部には国有鉄道、私鉄と連絡する都市高速鉄道5路線を高架式、地下鉄道式を織り交ぜて建設すべきだと答申しました。新しい東京の都市計画はここから始まります。

        関東大震災と郊外化の加速

        そんな矢先に東京を襲ったのが1923(大正12)年の関東大震災でした。東日本大震災と関東大震災を比較して、復興計画の遅さを批難する声が見受けられます。確かに1年が経過してなお未処理の瓦礫の山や、建築制限がかけられたままの荒地にはやりきれない思いを抱きますが、関東大震災における東京の場合は既に何年も前からその問題を先取りして都市計画が錬られていたという決定的な違いがあります。後藤新平東京市長が1921年に打ち上げた東京大改造計画「東京市政要綱」は当時の国家予算の半分以上となる8億円の予算となったため「8億円計画」「大風呂敷」と揶揄されたほどでした。ところがその2年後に大震災が発生すると、後藤新平が帝都復興院を組織し、8億円計画を下敷きとした帝都復興プランを速やかに実行したのです。

         一般的に関東大震災をうけて東京の郊外化が進んだと言われています。現在の豊島区や中野区、世田谷区といったエリアに広がる住宅街に震災後に開発されたエリアが多いことは事実です。しかし、実際には交通機関の整備による東京の拡大と共に1910年代から徐々に郊外の人口拡大は進んでいました。関東大震災により家を焼け出された人が下町から武蔵野台地へ移住した背景には、既に多くの人口を受け入れられるだけの開発が進んでいたことが挙げられます。関東大震災はその流れを大きく加速させましたが、東京の拡大と郊外化は既に誰にも止められない速度で進んでいたのです。

         次回は山の手の人口拡大を受け止めた私鉄による沿線開発を追っていきます。



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        第3回 「首都東京」を中心にした鉄道の発達
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          第8回 電車時代と生活圏の拡大


          鉄道の公有化

          前回は電車の発明と伝来、それに伴う東京の交通網の変化を取り上げました。1903〜1904(明治37)年なので、ちょうど日露戦争の頃、日本がアジアの小国から先進国に伍する存在へと飛躍を遂げる頃のお話です。最先端の軍艦や無線など様々なテクノロジーでロシア海軍を圧倒して対ロ講和へと導いた裏側では、首都東京も「先進国」の技術を取り入れて変貌を遂げていました。何もかもが大きく変わっていく、時代の転換期でありました。

          さて、この日露戦争は東京の鉄道にも大きな影響を与えることになります。まず、全国の鉄道網という観点で見たときに、国が保有する国有鉄道は東海道本線などごく一部でしかなく、各地域が日本鉄道、関西鉄道、山陽鉄道、九州鉄道といった私鉄によって保有されていました。日清戦争の時点では東京〜広島までしか鉄道は通じていません。1901(明治34)年に東京〜下関が開通し、日露戦争は鉄道輸送を駆使した初めての本格的な戦いでもありました。かねてより陸軍や内務省の一部で鉄道国有化論が叫ばれていましたが、日露戦争を機に鉄道国有化の方針が固まり、1906(明治39)年から各地の私鉄のほとんどは順次政府に買収されていきます。残った私鉄は東武鉄道や南海鉄道、京浜電気鉄道といった本線から外れた路線か地方の電車線くらいのものでした。

          一方、東京でも大きな変化が生じます。日露戦争の講和条約であるポーツマス条約に賠償金がないと知るや、大きな犠牲を出して、戦費として重税をかけられたのに、これでは戦った意味がないと民衆が政府に対してNOを突きつけた「日比谷焼き討ち事件」が発生します。明治以来中央政府の命じるがまま近代化を突き進んできた国民が、初めて政府に対して明確に反旗を翻した瞬間でもありました。

          日露戦争を機に日本経済の成長はさらに加速します。産業も軽工業から重工業へと次第に軸足を移していきます。それらが引き起こす物価上昇に対して、路面電車を運営する東京市街鉄道、東京電車鉄道、東京電気鉄道の3社は、従来の3銭均一料金から5銭へと大幅な値上げの申請を行いました。これに対してまたしても東京市民はNO!を突きつけたのです。1906年3月の反対集会は暴徒化し、路面電車に放火をしたり破壊をする「焼き討ち事件」の再来となってしまいました。結局5銭への値上げは却下され、同年9月に路面電車3社は合併し「東京鉄道」となり、4銭への値上げをすることになります。これに対しても反対の声があがり反対集会は再び暴徒化しますが、ここでは値上げは認可されています。「東京鉄道は暴利を貪るばかりで東京市民のことを考えていない」という声は市民だけでなく、東京市当局からもあがるようになり、ついに路面電車事業の市営化(公有化)方針が決定されるに至りました。
          この背景には、東京鉄道の経営者に当時の東京市議会の有力者が多数参加しており、路面電車買収の話が出れば株価を釣り上げ売りさばき、話が流れば株を買い戻すという今では到底許されないような手法で儲けを得ていたなど、東京市議会の腐敗体質の問題などもあったようです。
          路面電車市営化は各方面からの反対論を乗り越えて、5年後の1911(明治44)年に実現します。東京市電気局、後の東京都交通局の誕生でした。ちょうど100年前の出来事です。

          その結果、東京の鉄道網は、1914年に東京中央駅が完成した段階で以下のようにまで発展しました。赤い路線は国有鉄道、青い路線は私鉄、オレンジの路線は市営電車(路面電車)です。市内いっぱいに路面電車が張り巡らせられていることがわかります。また、国有鉄道は甲武鉄道から引き継いだ中央線だけでなく、山手線、京浜線(東京〜横浜間、後の京浜東北線)の電車化も進め、市内の電車網は着々と整備されつつありました。東京市の周辺部から郊外に伸びる私鉄の電車、京王線や京成線、玉川線(のちの東急玉川線、現在の田園都市線)、王子電気鉄道(現在の都電荒川線)などが建設されたのもこの頃のことです。

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          東京市の人口増大

           東京市中に電車が整備されると人々の行動パターンはそれまでとは一変しました。路面電車が走り始める1903年までは東京市民の移動手段は都心部こそ馬車鉄道が走っているものの、基本的に徒歩、富裕層や特に急いでいる時は人力車や馬車を使う程度でした。
           ところが低廉な運賃で路面電車が走り始めると人々の行動範囲は一気に広がります。東京市15区は東京中央駅から半径5km程度の小さな範囲に過ぎませんでしたが、東京市のどこからでも容易に都心へ通うことができるようになったのです。例えば錦糸町や新宿周辺から丸ノ内・有楽町に至る路線は約8km程度、当時の路面電車の平均速度(停車時間含む)は10km/h程度ですから、市域の外れからでも市街地まで1時間弱で到着できる計算になります。こうして東京市は一気に「半径1時間の世界」にまで縮小されるのです。

           日露戦争、第一次世界大戦を経て首都東京は日本の中心地としてますます発展を遂げていきます。1894年に約180万人だった東京府の人口は、1904年には230万人、1914年には280万人と10年間で50万人ずつ増加するという驚異的なペースで増え続けます。第一次世界大戦が講和を迎える1919年には、東京府の人口は345万人にまで膨れ上がっています。この間、1890年代から1910年代にかけての東京市外(三多摩地域)の人口は25〜30万人程度にすぎませんので、いかに東京市の人口が増加したか伺い知ることができます。(※東京都の人口推移調査、国勢調査に基づく)

           そんな東京市を大きな災害が襲います。1923年9月1日に発生した神奈川県相模湾北西沖を進言とするマグニチュード7.9の巨大地震、そう、関東大震災です。次回は関東大震災の前後を中心に、震災がもたらした「東京市の変化」について追っていきます。



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          [過去記事]
          第7回 電車の時代
          第6回 1890s Railway Mania(鉄道建設狂時代)
          第5回 東京都市改造計画
          第4回 馬車鉄道の時代
          第3回 「首都東京」を中心にした鉄道の発達
          第2回 「東京」の誕生と新しい交通機関
          第1回 江戸から東京へ


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