続・江戸の話 百二十六


『守貞謾稿』女扮編。今回は鬠(元結)の話である。ほぼ同じ話を既に紹介しているのだが、『守貞謾稿』の記述順に従い扱っておこう。
「平鬠は寛永後に始る由独言に云摎鬠は寛文)に起ると世事談にあり而て万治以来の図専ら平鬠宝暦の図は摎元結也其間何の世に廃之歟我衣に元禄前より元結引あれども買人稀なりと云はこき元結也既に有之て未専用せず平鬠を専用せし也宝暦に至りては平廃て摎鬠を専用とする也」
とある。平鬠(ひらもとゆい)は寛永後(1645〜)に始ると言い、摎鬠(こきもとゆい)は寛文(1661〜1672)に起ると言う。摎鬠が起こると言われる寛文より前、万治(〜1660)以来の図を見ると、専ら平鬠が描かれている。それが宝暦(1751〜1764)の図になると摎元結が描かれるように変化する。では宝暦までの間、何時の時代に平鬠がすたれたのであろうか、と発問するのである。そして、元禄(1688〜)より前には摎鬠はあったが買う人は稀であったとする記述を引き、摎鬠が起こって後も、それ以前同様に平鬠が専用され続け、宝暦年間になって平鬠が廃れ摎鬠が専用されるようになったと考察する。
「又今世の京坂に云丈長は昔の平鬠に似たれども摎鬠を以て髪を結ひ而後に摎髪の表に丈長を掛て飾とするのみ丈長を以て結髪するに非ず享保天文頃の元結は平鬠を以て結髪する歟又は今の如く平鬠は飾にてこき元結にて結髪歟図面にては難弁也」
とある。丈長は平元結の一種である。ただし守貞の頃には丈長で直接髪を結ぶのではなく、摎鬠で髪を結んだ後に丈長を装飾的に用いたと言う。守貞は享保天文の頃には平鬠で髪を結わえたのかと判断を留保する。これは、絵図からは装飾か実際に結んだものか判別し難いためである。なお、「享保天文」は「享保(1716〜1735)天文(1736〜1740)」の誤であろう。
「又昔の平鬠必ず空に反れり号之てはね元結と云針銅を納て上に反すと云り又々金銀の平鬠延宝頃専用すと風俗考に云り今も金銀丈長あり同意也又独言に寛文迄は麻縄を以て結髪し其表に黒絹を巻く平鬠を造て後絹を廃す事を云り実に其以来の図平元結久しく用之其後摎にて縮緬等を髪掛にしたる書は近世あるのみ」
とある。「昔」が何時の頃を指すのか詳らかではないが、平鬠は上に反らせるものであったらしい。それ故に「はね元結」とも言われた。これは鬠の中に銅線を納れて形を保ったものらしい。平鬠・丈長には金銀で装飾されたものもあった。寛文(1661〜1672)迄は麻縄で結い黒絹を巻いたが、平鬠を用いるようになって後、黒絹は用いなくなったと言う。守貞の時代に近くなると、ちりめんを掛けるようになったものらしい。


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    続・江戸の話 百二十五


     『守貞謾稿』女扮編。前回は婦人の風姿の話題であった。今回も女性の話題ではあるが、「婢」の話である。
    「元禄中婢の風姿 婢を厨女とも炊婢とも云俗に下女と云」
    「前図の髪形乃ち角曲髷也笄だるとも云ぐるぐる曲たる故也以上皆江戸の風姿也而も昔は三都とも大概異なる事なきなり」
    とある。この場合の「婢」は、「めやつこ」ではなく「はしため」「ヒ」と読むべきであろう。婢は厨女・炊女とも言われ、俗に下女と言われたという。台所仕事に従事する、品からみれば下に属するもの、といったところであろう。髪形は、前回の話に「婢は家にありても角ぐる也」と見えたように角曲髷で、その名称の由来は「ぐるぐる曲たる故」であると言う。この髪形は、守貞の頃の江戸の風姿であるが、かつては京都大坂でも同様であったという。「
    蓋豪賈の家には婢にも二階或は三四階の品を制す大概二品はある也二品の上婢を京坂に上の女子と云下を下の女或は飯焚女と云」
    とある。婢の中にも更に品の違いがあり、品は2〜4に分かれている。二品に分ける場合、京都大坂では、上の女子・下の女(飯焚女)と言ったという。名称の差違から見て、上の女子は、炊事以外の内向きに携わったものか。
    「江戸にて上婢を中働きと云下を飯焚女と云おまんまたきと云也則ち炊女也」
    とある。江戸では中働き・飯焚女(おまんまたき)と名称は異なるが、飯炊女の方が下である点は京都大坂と異ならなかったようである。
    「京坂豪富の三四品に別つものは上婢を腰元と云乃ち媵也次を中通りと云下を下の女と云」
    とある。京都大坂の三四品に分ける例とはするが、実際には四分の例は示されていない。三分の場合、最も上が腰元、次が中通り、下が下の女と言ったものらしい。


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      続・江戸の話 百二十四


      『守貞謾稿』女扮編。今回は、ほぼ図版だけである。
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       左は「元禄ごろの処女の風姿」、右は同「下婢」。処女の風姿には「島田髷 是しめつけ島田と云歟」「当時皆平鬠也 越前より粉紙にて元結を造り出と独言に云是也」とある。しめつけ島田は島田髷の一種であり元禄頃に流行したとされる。下婢も島田髷である。

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       続いて「延宝以後専ら前髪を結ぶ」とあり、図には「玉結び」と題されている。髪を後方に垂らし結ぶのが「玉結び」である。
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       これも「元禄中処女の扮」であると言う。この図には、解説が付されている。

      「守貞曰是遊女の扮歟と思に不然坊間の娘なるべし。前図は略なるを以て再出之。
      い 〆付島田髷前後無長短中に平元結をかくる
      ろ 差櫛白檀の木地に珊瑚の切入れ梅の折枝
      は 吹前髪鯨鰭の曲りたる物を納れて髪の不動を要す
      に 付け肱手先を以て袖口を上る
      ほ 上着玉子色同裡摸様秋草に翠簾 帯天鵡絨の石たヽみ袖下二尺三寸
      へ 中瑠璃紺同裡
      と 下着碁盤島の裡藤色の表
      ち 反し褄衽先きを少し引上て帯に挟む
      り 浅葱の金剛
      ぬ 白き合せの脚布裾の四所に鉛鎮をつける」

       ただし守貞は、〆付島田髷については、真ん中が凹んでいないので誤りではないかとしている。


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        続・江戸の話 百二十三


        『守貞謾稿』女扮編を読み進めよう。今回は女性の髪飾の話題であるが、別書からの引用が中心である。
        「婦女髪飾 嬉遊笑覧云婦人首飾昔はなし「栄花咄」に今世の女昔なかつた事どもを仕出してさりとは身をたしなみ道具数々也是に気を付て見しに頭より上ばかりを入物十六品あり云々先髪の油鬢つけ長加文字小枕平?忍元結笄指櫛前髪立?粉白粉歯黒黛也をもり頭巾留針浮世葛籠笠云々」
        とある。『嬉遊笑覧』に引く『(西鶴)栄花咄』。井原西鶴の頃からみて、女性の装いで道具で昔は無かった事を見ると、頭より上に用いるものばかりであるという。十六品として髪の油・鬢つけ・長加文字(かもじ)・小枕・平?・忍元結・笄・指櫛・前髪立・?粉・白粉・歯黒・黛・をもり頭巾・留針・浮世葛・籠笠を列挙する。
        「後に其碩も此文をまねて「賢女心粧」に始六十年以前のことを定規にして昔も今も同じやうに思はれ嫁の髪見るに?の中に鯨の墨遣を二三本も入らるヽは何の為にせらるヽぞ吾は此年まで髪の中に小枕の外は蒔絵の木櫛に黒き笄を指て花をやりしに嫁のあたまを見れば透通る玳瑁の櫛をさし笄の外に簪とやら云物をさヽるヽは何の用に立事ぞ時代違ひの姑の目からは弁慶が七つ道具を天窓に戴くと思るヽは無理でなし」
        とある。ここで引くのは江島其磧『賢女心(化)粧』。嫁の髪形を見ると、?(たぼ)の中に鯨(の髭)製の墨遣(すみやり)をいくつも入れている。姑はこのときまで小枕の他には蒔絵の木櫛・黒い笄を指す程度であった。嫁の頭を見ると、鼈甲の櫛をさし、笄の他にも簪という物を指しているという。草子とはいえ、「何の用に立事ぞ」という所感は、異なる時代を生きた者からすれば、自然な描写であろう。
        「凡首筋より上ばかりに入物廿一二品もあり仮初に出るにも身拵へに隙なきこと思はれける先髪の油びんつけ銀出し長かもじ小枕平元結忍?笄簪髱出し差櫛前櫛前髪立紅粉花の露黛きはずみおもり頭巾留針加賀笠戴き同くくけ紐荒増さへ此通りそがし此云は西鶴が云し貞享より六十年に及べり品数は多くなりしかども変りたる物は笠と簪墨やりし也」
        とある。髪の油・びんつけ・銀出し・長かもじ・小枕・平元結等々を列挙する。『栄花咄』と、六十年ほど後の『賢女心粧』を比較すると、品数は増加しているが、変化があるのは、笠・簪・墨遣であるという。前段で言及のあった鼈甲櫛は、ここでは数えられていない。「変りたる物」の基準をどこに置いているのかは、詳らかではない。


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          続・江戸の話 百二十二


          『守貞謾稿』女扮編を読み進めよう。
          1「菱川師宣天和貞享頃の江戸の浮世絵師和国百女に曰町人の娘は余り風俗にもかまはずして軽々敷しやんと見ゆる素より衣服の模様もしほらしく人の目に立て端手なるは大かた嫌ふ也云々と頭書して下に三女を図すともに其扮相似たり蓋此一女帽子をかむり外二女は不冠之 人目に立て花手なるは大方きらふとかきて此図今世に比すれば太だ花手なり今世浴衣の他如此大紋の服を着ず」
          とある。浮世絵確立者として知られる菱川師宣は元禄年間の没、「天和貞享頃」というのは活動時期を漠然と示したものであろう。さて、同書には「町人の娘」の衣服について「しほらしく」「端手(はで)なるは大かた嫌ふ」等とある。しかし守貞の頃と比較すると、甚だ派手で、浴衣以外ではこのような大きな絵柄の服は着ないと言う。
          2「同書曰町人の女房其身顔形能く生れ付宜き方へ縁付しての後親の方又は其外親類の所へ行く時には顔も綿にてかくさず底至りの風俗して人に誉られたく想ひ態と陸にておもわくらしく静かに行也云々底至りと云は外見華に非ず又美ならず而も麁に似て其実は精制善美を云今も此言あり江戸の方言也」
          とある。同書「町人の女房」。親元・親戚の所に赴く時には、人にほめられ思い、顔を隠さず、底至り」な装いで行くものらしい。守貞によれば「底至り」は江戸方言。今日でも用いないものでもないが、外見は華やかでも美しくもなく、粗にもみえるが、実際には(見えない所は)念入りで美しいもの。ともあれ、これは「其身顔形能く生れ付宜き方へ縁付しての後」の場合に限られる話題であり、当該時代に敷衍できるものではない。

           なお、『守貞謾稿』の図は略があるので、今回の図は『和国百女』から採った。『和国百女』は菱川師宣没後の刊行であり、厳密に描かれた図絵の年代を比定するは困難である。ただし「町人の娘」の例のように、守貞の頃の風俗と図絵を比較するには、問題とはならない。


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