【書評】岩下哲典『江戸の海外情報ネットワーク』


江戸期の蓄積が明治維新の基盤となったとする説は、近年に至って広く唱えられる所である。岩下哲典『江戸の海外情報ネットワーク』(吉川弘文館、2006)もまた、これを情報の観点から明らかにしようとしている。筆者は幕末期の海外情報に関するネットワークは、既に江戸期に存在したそれの延長上にあったとし、その大枠は享保年間に既に完成していたと指摘する。更にその情報ネットワークは寛政年間に更に成長を遂げ、遂に黒船来航を契機にその働きが最大限に発揮され、明治維新を招来したと説いている。

また、情報という物について筆者は社会変革の重要なファクターであると位置付けており、それは時として人々を、そして社会を動かす物であると述べ、幕末期にこれを成し得たのは海外情報のネットワークあったればこそであると言う。この辺りに関して整理すれば、恐らく情報の収集と共有、更に検証と拡散などに関するシステムの如きものが存在したという事なのであろう。個人的にはこれらに分類して論じて貰えれば良かったのであるが、「海外情報ネットワーク」という便利な言葉によって、聊か漠然としたイメージで語られている感があるのが残念ではある。

さりながら、享保期の象来着や寛政期のナポレオン情報の流布が、それぞれ情報ネットワークの構築の事例として取上げられている点については、個人的に大いに関心をそそるものがあった。前者は江戸期以前の史料も用いて、日本人にとって「象」が当初、麒麟の如き霊獣として扱われていた事を示し、また享保期に徳川吉宗によって招来される以前の、室町から江戸期にかけての象の来着事例について纏めている辺りが非常に興味深かった。ただ肝心の「海外情報ネットワーク」に関しては聊か首をかしげざるを得ない部分も散見される。象の来着によって異国学(蘭学)の夜明けがもたらされたのではないかとするのは、因果を違えてはいないかと思う。寧ろ、本草学者を中心とする博物学的な興味関心が、此等の物を生ぜしめたと考えるのであるが、如何か。

一方、後者に関しては筆者の別の著作である岩下哲典『江戸のナポレオン伝説』(中央公論社、1999)で概ね知り得ている話であったが、改めて読み直しても得る所が少なく無かった。特にロシア人のもたらした情報に関する所などは情報の検証と拡散について考える上で示唆に富んでいるように思われる。幕府天文方はロシア人・ゴロウニンが書いた日本に対して批判的な「日本幽囚記」と、同じくムールによる日本に対して好意的な「獄中上表」を共に蘭語に翻訳して欧州に輸出し、彼等をして判断せしめんとしたとする話は、限定された状況の中で何とか情報の精査を行おうとする営みに他ならないからである。現在、鎖国期とは比べ物にならない程の情報に接している我々であるが、その中で生きたそれにどれだけ接しているか、またそれを如何に生かしうるかという事について改めて考えさせられるものがあった。



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    【書評】永沢道雄『大正時代』


    永沢道雄『大正時代』(光人社、2005)は大正時代を概観しようと試みられている一書である。
    筆者は元朝日新聞の論説委員であり、その為か歴史観に於いて一種の偏りも見られるが鼻を突く程ではなく、
    一般読者に向けたであろう筆致は分かりやすく、この辺りは大いに参考としたい所である。
    また、多くの新聞記事が典拠として用いられており、当時の雰囲気を活写するのに一役買っている。

    あとがきには「じつは大正こそは、昭和日本の原点だったのではないか」という問題提起がある。
    「原点」という表現の曖昧さについては兎も角、それには大いに首肯する所だ。
    更に筆者の表現を借りれば、大正は決して「踊り場的な中途半端な段階」などではないのである。
    嘗て司馬遼太郎は「明治の日本は良かったが大正・昭和になると魔法がかかったかのようにダメになった」と述べたという。
    この評を正しいと見るかについては別途議論が必要であろうが、その「魔法」の秘密がこの時代にはあるのではないか。

    その様な観点からして、大正時代に関する研究は更に進展するべきであると思われるし、
    その入口として本書のような書籍は一つの見解を示す物として有益なものであると言えよう。
    実際、大正時代の劈頭に発生した所謂「大正政変」に関してもよく纏まっており、
    単なる暴動による混乱によって桂内閣が打倒されたのではなく、周到な倒閣運動が存在する事が分かる。
    また、尾崎咢堂や犬養木堂が如何に政治的スターであったのかというのも知れてくる。

    また、大正天皇の「遠眼鏡事件」に関しての記述など細かいエピソードも面白い。
    これは大正天皇が帝国議会に於いて勅語の書かれた紙を遠眼鏡のようにして、
    「見える見える」と言ったという、当時から広く流布された話である。
    実際、私の祖母もこの話を知っており、何度か聞いた事がある。
    同書によればこれは誤解であり、或る日、詔書が逆さまに巻いてあった事があったので、
    次回に用心して中を覗き見たのが尾鰭が付いて広まったとある。

    更に、西原借款を巡っても幾らか紙幅が割かれている。
    大正時代の初頭に行われた六国借款を始めとして、多くの対中借款は行われたが、
    寺内正毅内閣によって推進されたこの借款はその規模に於いて群を抜いており、
    またそれが回収不能となったことで、一つの愚行とされている。
    この西原借款について筆者は「そんなに度外れてない」との評を下しているが、
    そこに至るまでに、当時の対中政策に関する寸評は簡にして要を捉えている。

    筆者は昭和四、五十年代と大正時代がダブると言う。
    私は或る時代をそれとして見るのが宜しいと思うので、これには与しない。
    さりながら、当該期について知る事は多くの示唆に富むという点に於いては、大いに同意する所である。



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      【書評】 石田純郎『江戸のオランダ医』


      石田純郎『江戸のオランダ医』(三省堂、1988)は十七世紀初頭から十九世紀末までにかけての西洋医学、就中、蘭方医学の受容について通史的に述べられた書物である。

      筆者は医師であり、また日本医史学会の評議員でもある。同書の他にも精力的に論文を執筆しており、さぞ昔から歴史に深い関心を持った人物であったのだろうと思われたが、さにあらず、どうやら高校生まで歴史を苦手な「暗記科目」として嫌悪していたらしい。彼が歴史に興味を持ち始めるのは医学部三年の頃、「日本経済新聞」に自らの母方の先祖である守屋庸庵の名を見いだした事によるらしい。自らのルーツを求めて歴史の森に分け入る人は少なく無いが、その多くは自らの先祖を相対視する事が出来ず、単なる出自自慢の具とするだけに止まる。しかし筆者はここから自らの研究を深化させて行くのである。その過程については同書の冒頭にある「わたしの蘭学事始」に詳しいので改めてここでは述べないが、これ自体でも読み物として十分に興味深いものとなっている。

      さて、同書の出色とする所は、近世の蘭方医学の受容に対する概観を通して、その多くが同国の軍医学に拠っている事、また当該期に日本を訪れ、影響を残した蘭人医師の多くが軍医であり、かつウトレヒト陸軍軍医学校の出身である事を明らかにした点である。特に幕末期に来日し、長崎で初めて西洋式の近代的医学教育を行ったポンペ、またその後を引き継いだボードインについては多くの紙幅が割かれている。

      明治に入ると明治政府の内部ではオランダ式の医学を選ぶか、イギリス式の医学を選ぶかという点で議論が発生した。結局はその何れも採られず、ドイツ医学が採用される事になり、以後、近代を通じて受容されていく事になる。筆者はこれに対して、地方に於いては依然としてオランダ医学の影響が見られ、更にその後の東京大学医学部にもボードインが導入したウトレヒト陸軍軍医学校のシステムが残っていたと主張している。結局はこれもドイツのプロシア陸軍軍医学校のシステムへと入れ替えられていくようであるが、日本の医学教育の中心的なモデルとして何れにせよ軍医学校があった事を筆者は強調して止まない。またこれを踏まえて、現今の医科大学に於いてもカリキュラムが硬直であるのはこの影響であると指摘している。

      如上の筆者の主張が如何ほど当を得た物であるかは、医学界に身を置かぬ私には体感し難い所ではあるが、その中で述べられている「日本の国立の医大には、医学とは何かを知る医学哲学、医学概論、医学史の研究室がない」という話には少しく驚かされた。勿論、同書が上梓されたのは昭和六十三年(一九八八)の事であるから、二十年以上も前の事であり、現在は異なっているかも知れない。しかし、これは当時の医学教育はその「学」たる部分、即ち普遍性に至らんとする部分を軽視し、技術の習得に重きを置いていた事を示す一例と言えないだろうか。有体に言えば、当時の「医学部」は「医術部」に他ならなかったという事になる。果たしてそれで良いのか否かという点については一先ず措くとしても、例えば医療倫理の問題等、医学界を取り巻く状況を考慮した時、これらの部分について幾許かでも講究しておく事は、斯界に於いて有益な事と思われる。



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        【書評】 コンスタンチン・ヴァポリス著/小島康敬訳『日本人と参勤交代』


        コンスタンチン・ヴァポリス著/小島康敬訳『日本人と参勤交代』(柏書房、2010)は米国人研究者の目を通して語られる参勤交代に関する研究書である。

        明治三十九年(一九〇六)コノート公アーサーがエドワード七世から明治天皇に授与されたガーター勲章を届けるべく来日した。この使節団には嘗て兄であるエジンバラ公アルフレッド来日の際にも扈従した、アルジャーノン・ミッドフォードも同行しており、その報告から日本政府が「大名行列」を再現して見せた事について紹介してされている事から、軽く読んでみるだけの積もりであったのだが、思わぬ掘り出し物であった。

        同書は政権の安定性の根幹としての、政治的主権者の物理的移動を世界各地の文化に一貫する現象とし、近似した事例として、中世ドイツにおける「主廷参向」、十七世紀末から十八世紀初頭のフランスにおける諸侯の宮廷への伺候、十八世紀から十九世紀のモロッコにおける国王の巡行などが上げられているが、これらよりも参勤交代を遙かに大きな歴史的な意味を持つものとして、極めて肯定的に評価している。その妥当性は兎も角、他国における類似の現象や制度について論じる辺り、日本史研究者には余り見られない事であり、新鮮な印象を受ける。

        また、参勤交代を大名の戦争準備能力の減殺のみならず、経済発展、都市化、社会生活の変容、特に文化の伝播に大きく寄与した点が強調されている。参勤交代に伴い、多くの藩士が一年間の江戸暮らしを余儀なくされる。その中で江戸の文化に触れ、またそれを国元に持ち帰るという事が広範に行われていた。その点については既に多くの研究者の述べている所ではある。しかし同書においては、従来の「江戸から地方へ」という文化の伝播を一面的なものに過ぎないとし、逆に国元の文化を江戸に持ち込まれ、相互交流による文化の豊穣化によって「江戸文化」が生まれたいう視点が述べられている所が実に興味深い。

        更にその中で、江戸詰を一種の訓練制度と見る視角を示し、多くの武士達が「江戸体験」を共有する中で、他藩の武士と直接交わる事を国家意識を作り出す重要な過程であるとしている。幕末史に興味関心を持たれている方であれば、この辺りについては大いに首肯される所であろうが、それのみならず江戸期における「知」の発達史について考える時、この交流の果たした意義が極めて大きいと言えるだろう。

        さて、これらの指摘は近年語られる「地方分権」という事柄を考える上において、極めて多くの示唆に富むように思われる。嘗て江戸期においては参勤交代によって地方は中央の動向を知り、また地方政治を行う人々が多くの見聞を得る事が出来た。平たく言えば、藩政に係わる者が自藩以外の世界を知っていたという事である。

        一方で、現在の地方で要路にある人々は如何であろうかと考えた場合、相対的に見て、江戸期の武士よりも中央を知り、また、広い見識を持ち得ているか疑問とせざるを得ない。また、自分の属する自治体以外の人材とどれだけ交流出来ているかについても同様である。何故なら、地方から離れて暮らした経験を持たない者が圧倒的に多いからである。声高らかに「地方の時代」と呼号するのは良いが、このような事では中央の文化の在り方にまで影響力を及し得るだけのコンテンツを発掘したり、また同時に伝播される為のシステムを地方が持つ事は出来ないのではなあるまいか。願わくば杞憂であって欲しいものである。



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        【書評】安藤優一郎『幕臣たちの明治維新』


        ―日本近代史は勝者の薩摩・長州藩側の立場から日本を描いた歴史叙述である。

        安藤優一郎『幕臣たちの明治維新』(講談社現代新書、2008)は、その歴史観から敢えてこれに抗し、敗者である幕府側の人間に着目した作品である。更にそれは、多く見られる戊辰戦争の中で戦い抜いていく人々の姿ではない。明治政府の官吏として、或いは商人や農民として、更には徳川家が封ぜられた静岡藩の家臣として、生活という名の別の戦いに身を投じた人々を描こうとしている。主に旧幕臣によって書かれた回顧録などの資料を元に語られており、それだけに彼等の生活のありようが生々しく伝わってくるのみならず、旧幕臣の多くが汁粉屋や団子屋を営んだであるとか、身分が低い程に配られる扶持米の質が低くなっていくであるとか、乳牛や兎の飼育で生計を立てようとするであるとか、その事例についてもバラエティーに富んでいる。

        ただ、読む中で幾つか気になった点がある。江戸幕府に仕える「幕臣」と徳川氏に仕える「家臣」の区別は厳密ではない点である。勿論、前近代の事であるので、これを完全に区別するのは難しかろう。しかし、例えば福沢諭吉や福地桜痴などは「幕臣」ではあったかも知れないが、徳川氏の「家臣」かというと聊か微妙ではあるまいか。同様に多数存在したであろう無役の御家人などは、徳川氏の「家臣」であるかも知れないが「幕臣」と呼んでいいか難しい所である。無意味な言葉遊びのように思われるかもしれないが、恐らく「幕臣」であるという、或いは「家臣」であるというアイデンティティーが、場合によっては混交しつつも、それぞれに存在したのではあるまいか。また明治維新後における、各々の身の振り方にしても、この認識が幾らか左右したであろうことは想像に難くない。この点について筆者の見解などが示されていて欲しかった。

        また冒頭にも挙げたように、殊更に歴史が勝者によって作られるという点が強調されているのが鼻に突く。何等かの被害者意識を持って歴史を見る人達にとって、この言葉がとても魅力的であり、また、これを用いさえすれば敗者の側の残した叙述をその内容の真偽を殆ど検証する事もなく「真実の歴史」として語ることが出来るという点で極めて利便性が高いことも分かる。それだけに当該期の歴史を語る際によく使われる表現ではあることは十分に承知している。

        ただ、果たしてこれに無条件に首肯して良いものなのだろうか。確かに勝者の側が提示した「正義」なり「歴史観」なりがその後の世界で支配的となるのは分かる。同時にそれが勝者の正当性を雄弁に物語るものとなる事も承知している。さりながら、ただそれだけの事に過ぎないのではないか。勝者は歴史の見方や解釈について一定の強制力を発揮することが出来るかもしれない、しかし、歴史そのものを支配することは出来ないのではあるまいか。何故なら、いかな勝者とて関係する全ての史料を捏造・隠蔽・改竄したり、敗者の側の人間の口を完全に封じたり、更にはそれらの行為が行われたという痕跡すら残さないようにすることなど不可能であるからだ。

        つまり、完全に勝者にとって都合の良い歴史など存在し得ない。同時に正当性を否定された敗者の側が、盛んに後世に自己の正当性を知らしめんと様々な物を残そうとする事も等閑視してはならない。もし敗者が全く歴史を残すことが出来ないのであれば、ポーランド史やアイルランド史などは成立し得なかったであろう。また、何よりも本書で用いられている様々な資料や、また紹介されている旧幕臣らによって行われた修史事業も証拠となるに違いない。敗者もまた、否、時として勝者よりも雄弁に歴史を語るのである。敗者の歴史は勝者によって圧殺されたからではなく、ただ人々に顧みられず、風化することによって失われていくだけなのではあるまいか。





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