象の住んだ町


西武新宿線「沼袋」駅から少し歩いた新青梅街道沿いに、中野区立歴史民俗資料館はある。
同区も旧石器時代の石器が出土しており、縄文期の物として朱塗椀が出土している。これは幾重にも漆を塗って作られており、その技術と文化の程度を窺い知る事が出来る。また、弥生期から古墳時代にかけても引き続き人が住み続けており、「平和の森公園北遺跡」や「新井三丁目遺跡などは合計二百五十戸以上の遺構が存する、都内でも類を見ない規模の遺跡である。

中野区立歴史民俗資料館.jpg

しかし、不思議な事に古代に入ると中野区の辺りは人跡が途絶えてしまう。これは律令制の施行に伴い、計画的に集落が移住させられたからであるという説があるが、正確な所は分かっていない。次に同地域の歴史に於いて大きな動きがあるのは、中世をずっと下った十五世紀も後半になってからである。中野区立歴史民俗資料館より程近い、現在の哲学堂公園から野方六丁目の辺りで、太田道灌と豊島泰経による所謂「江古田原沼袋合戦」がそれである。この戦いに勝利した太田道灌は豊島氏より武蔵野の支配権を奪取したのである。

その後、太田氏から北条氏にその支配者を変え、同地に一人の人物が封ぜられた、その名を堀江兵部と言う。堀江氏は元は越前国に発したと家伝にある、北条氏の配下となっていた堀江兵部はこの地に農民等と共に住み、開発に勤しんだ。時が移り江戸時代に入っても堀江家は同地の名主として近郷の有力者となり、明治以降も当代の堀江卯右衛門が桃園学校の建設に尽力している。一説には夏目漱石の祖父、夏目直基が同家より養子に来た人物であると言われている。同家の文書は「堀江家文書」として現代に伝えられており、同館でもその一部を見る事が出来る。

江戸期と言えば、五代将軍・徳川綱吉の頃、中野には所謂「生類憐れみの令」に伴って、野犬を収容する為の巨大な犬小屋が設けられた。これは現在の中野駅近く、中野区役所や中野サンプラザの辺りにあった。また、八代将軍・徳川吉宗の頃には安南より渡来した象が、中野村の源助なる人物に下げ渡され、飼育されている。死後、象の皮は幕府に献上され、骨と牙は源助に与えられたと言われているが、この骨の一部が区内にある宝仙寺に所蔵されているとの事である。

近代に入ると、甲武鉄道や西武鉄道の敷設、更には関東大震災後に中野町と野方町が合併、中野区が誕生、都心からの移住者も増えて大きく発展していく事になる。ただその中心はやはり中央線沿線に集中していく事になり、同館のある沼袋界隈は聊か大人しい印象があるが、逆にそれが住まうには程好い感じもしたのであった。何せ象まで住んだ町であるのだから。
0

    駒込茄子と池袋モンパルナス


    先日、豊島区郷土資料館に足を運んで見たのであるが、夏季展示の準備の為に閉館中であった。
    明らかな凡ミスであるが、幸いに事務所は開いており、図録等の資料を確認する事が出来た。
    今回はそれらの資料を元に、豊島区の歴史について概観して行きたい。

    豊島区もこれまで紹介してきた他区同様、古くから人が住んでおり、染井遺跡からは旧石器時代の打製石器などが出土している。同遺跡には縄文期の貝塚もあり、この他にも豊島区内には池袋東貝塚・氷川神社裏貝塚等の貝塚が存在している。海辺から離れたイメージがある同地域にこのように多くの貝塚が見られる事は何とも意外である。尚、この染井遺跡の辺りは江戸期には染井村と言った。この地域には多くの植木職人が暮らしており、最も有名な桜の品種となったソメイヨシノは彼等によって作り出されたものである。この為、同館においても駒込・巣鴨の地域で行われた園芸に関する展示が行われているようである。

    さて古代、律令制が施行されるようになると、この地域は武蔵国豊島郡とされた。現在の「豊島区」もここから来ているが、「豊島郡」自体はかなり広大な領域を占めており、現在の台東・荒川・北・板橋・豊島・文京・新宿各区と渋谷・港・千代田各区の一部がこの中に含まれるという。中世に入ると関東八平氏の一つである豊島氏が同領域を支配し、室町期に太田道灌に破れるまで、その勢力を維持したという。因みに世に言う「山吹の里」の伝承が豊島郡の各地域に残るのはこの事と無縁ではない。しかし、その太田氏の支配も後北条氏の台頭によって終焉を迎えることになるのである。更に時代が進み、近世になると、豊島区の領域にあった村落の多くは、前述した植木などの栽培の他、近郊農業の担い手として一代消費地である江戸市中に野菜を販売していた。今では隣の区の「練馬大根」程のネームバリューは無いものの、駒込茄子は初夢に出ると縁起が良いとされる「一富士・二鷹/三茄子」のそれであるという話もある。それを踏まえて、展示されている民俗資料の多くは村落での生活や、農業に拘わる物が多いようである。この辺り、同じ区部と言っても既に見た文京区や千代田区でのそれと異なっている。

    近代に入り、江戸期からの都市化が更に進行すると、景観と共に人々の暮らしも大きく様変わりしていくことになった。鉄道が開通し始めると多くの学校が豊島区内へ移転を始め、現在にも繋がる学生の街としての様相を備え始めていくのである。また、現在の豊島区長崎界隈には美術家向けの借家が多く設けられ、「アトリエ村」、または「池袋モンパルナス」と呼ばれる地域が形成された。この文化的素地はやがてかの「トキワ荘」へと繋がっていくのである。

    尚、豊島区郷土資料館は来る七月二十一日より展示を再開するとの事なので、
    夏休みに訪れては如何だろうか、勿論、私も改めて足を運んで見る積もりでいる。


    是非、ワンクリックをお願い致します。
    0

      歌舞伎町で逢いましょう


      現在、新宿区立新宿歴史博物館では「用の美 提重と携行品」を開催中である。幕末から明治・大正期までの弁当箱をはじめ、旅の際に用いる携行品や運搬具などを併せて展示してある。個人的には提重の中で弁当箱と共に並べられている酒筒や、鉄銚子の類に心惹かれた。これを如何に用いようと思わせる道具は良い物であると思う。

      さて、新宿区もこれまで見て来た他の区と同様、古くは旧石器時代から人が居住していた地域である。妙正川遺跡からは石鏃やナイフ形の石器が出土しており、その後も縄文・弥生・古墳時代と各時期それぞれの遺跡から、ほぼ恒常的に人が住み続けていた事が窺える。

      中世後期から近世にかけて宿駅が整備され、元禄十一年(一六九八)には現在の「新宿」の元となる「内藤新宿」が設置、以降は宿場町として大いに発展していく事になるのである。内藤新宿は都鄙交通の要衝であるだけではなく、江戸近郊農村が生産したの商品流通のセンターでもあったようだ。例えば旧角筈村(現在の歌舞伎町や西新宿周辺)の「渡辺家文書」にある人別帳等を見ると、そこに住まう多くの百姓が単に農業を営むのではなく、同時に商売を営んで兼業化している事が窺える。また村内に商売人が入りこんで来ており、様々な商品が取引されていた事が分かる。



      明治に入ると、坪内逍遙や夏目漱石が同地に居住し、またその下に集まる弟子達を始めとする文人墨客の多くもまたこれに倣った事については既に広く知られる処であろう。同館に於いてもこれ関連する展示がなされているが、この事は都市交通の整備と無縁ではない。明治期の「日本鉄道」「甲武鉄道」などの私鉄の乗り入れに始まり、「都電」や「省電」の開通、また現在でも多くの乗客を運んでいる「京王電鉄」「西武電鉄」「小田急電鉄」の各鉄道や地下鉄の整備などにより、現在の東京都西部への玄関口へとして成長していったのである。同館では、昭和十年に運行されていた5000形の市電が復元されて展示されている。外部のトロリーポール(聚電器)や運転席のコントローラー(制御器)は当時使用されていたものをそのまま用いているそうである。



      人が集まる所には往々にして娯楽施設が設けられる。新宿もその例に漏れず、大正九年(一九二〇)の「武蔵野館」を皮切りに多くの映画館が建てられていった。当時は映画と言ってもまだ弁士が説明する無声映画の時代であったが、それでも人気は上々で、昭和に入ってからは音声付きの「トーキー映画」が見られるようになると娯楽としての人気を不動の物としていったのである。

      外へ出ると雨は小降りになっており、私は足早に駅へと向かった。
      これから歌舞伎町のスカラ座へ映画を見に行くのである。


      是非、ワンクリックをお願い致します。
      0

        入口の街


        特に特別展は行われていなかったが、今回は港区立 港郷土資料館へ赴いた。同館は港区立三田図書館の四階にあるが、昨年度に港区および港区教育委員会が「旧国立保健医療科学院」を整備し、新郷土資料館を開設する事を決定したようである。

        港区の有った地域には縄文時代から既に人が居住しており、港郷土資料館に程近い所にも伊皿子貝塚遺跡がある。ここからは縄文時代後期の住居跡の他、弥生時代中期の方形周溝墓、更には古墳時代の住居跡が見つかっている。また、その上の地層からは平安時代の遺構も見つかっており、同地域が古くから居住に適した場所であったことが分かる。同館には伊皿子貝塚の貝層の断面が展示されているが、本来であれば貝と同時に捨てられている筈の土器や獣魚の骨が殆どみられないという。この事から、この貝塚では貝の加工処理を行う為の場所であったのではないかとの推測もなされているようだ。

        骨格標本.jpg

        骨と言えば、同館にはミンククジラの全身骨格標本が展示されている。
        これは東京慈恵医科大学の標本館から寄贈されたものであるのだが、直接手で触れる事が出来るようになっている。またそれ以外にもアジア象の頭骨などもあり、興味は尽きない。

        さて、江戸期に入って港区には多くの寺社が建立された。将軍家の菩提寺となった増上寺などはそ
        の中でも最も著名な物の一つであるが、港郷土資料館には同寺に対して徳川家康が発給した文書などが展示されている。また、現在増上寺の寺域を含む一帯は区立芝公園となっているが、その中には江戸期に徳川光圀が発掘調査を行った事で知られる芝丸山古墳がある。当初この周辺には十基程の円墳群があったが、昭和三十年代に整地されてしまった。同館ではその際に出土した武具や管玉などの出土品を見る事も出来る。また赤穂四十七士の眠る泉岳寺も港区内にある、また堀部安兵衛や大石主税がお預けとなっていた伊予松山藩の中屋敷が同館の程近くにあり、彼等の調書などの関係史料が展示されている。

        幕末から明治にかけて、この地域には多くの列国の公使館が設けられた。例えば東禅寺はオールコック公使の際に英国公使館と定められ、その後、パークス公使やサトウ書記官の記録にも見る事が出来る。余談であるがこの東禅寺には雲谷等益の描いた「寒山拾得図」があり、現在その複製が新収蔵資料として展示されている。ともあれ、この「伝統」は今も続いており、港区には現在でも六十以上の国の大使館が存在している。先述の伊予松山藩の中屋敷跡も現在はイタリア大使館の敷地となっている。同館にも各公使館などの関係史料の他、嘗ては蜂須賀公爵家の邸宅であり、後にオーストラリア大使館となった建物のステンドグラスなどを見る事が出来る。

        ステンドグラス.jpg

        キラキラと光を反射するそれを見ながらふと考えた。そういえば、この地は嘗て地に高輪大木戸があり、海に台場が設けられていた江戸の入口であった。明治以降には新橋駅という東京の入口が作られており、そして今もなお多くの外国人を出迎えて日本の入口となっている。畢竟、港区は入口の街と言えるのかも知れない。


        是非、ワンクリックをお願い致します。
        0

          団子と炭団


           現在、文京ふるさと歴史館ではミニ企画展「昭和初期の広告−商店双六−」を開催中である。昭和初期に広告の一環として作成された商店双六が多数展示されているかと思いきや、「ミニ企画展」と銘打つだけあって展示されていたのは二枚だけであった。更に館内に再現された長屋の中では複製の双六で遊べるとの事であったが、流石に一人で双六で遊ぶというのも躊躇させられる所である為、予定を変更して常設展を見る事に切り替えた。幸い、当館は許可制で館内の撮影が認められていたので、早速に手続を済ませ、色々と見て回ることにする。


          文京区ふるさと歴史館文京区ふるさと歴史館

           文京区は武蔵野台地の一角にあり、旧石器時代より人が住んでいた。縄文時代に移行してもそれは変わらず、区域内では多くの貝塚の存在が確認されている。また貝塚近くでは人骨が発掘される事がある。これは貝塚より染み出したカルシウムが人骨を保護するからであると言われている。また、弥生時代の由来となった弥生式土器が初めて発見されたのは同区内である。更に奈良時代には武蔵国国分寺の瓦に「湯島」の文字を見る事が出来、中世を通じて太田氏・豊島氏などの有力豪族の支配領域となった。今も各地に残る同期の板碑はその名残と言えるだろう。

           江戸時代になると伝通院や護国寺などの寺社が建立される傍ら、現在の東京大学の前身の一つである昌平坂学問所を始めとする多くの学問所が設けられた。幕府の他、岡崎・掛川・郡上・多古・福山などの諸藩も屋敷地の中に藩校を置いて江戸詰の藩士の教育を行った。特に福山藩のものは江戸の藩校の中でも最大規模の物の一つと言われており、阿部正弘によってペリー来航の年である嘉永六年(一八六三)に建てられたものである。また僧籍にある者への教育機関も興隆しており、伝通院の学寮や吉祥寺の栴檀林などが有名であった。



          小石川養生所小石川養生所

           館内を更に進むに、目に止まったのは小石川養生所の模型である。山本周五郎「赤ひげ診療譚」でも有名な同所は、享保七年(一七二二)に徳川吉宗が目安箱に投ぜられた建白書を採用、小石川薬草園内設立した医療所である。江戸町奉行の支配に属し、看病する者のいない極貧の者を八ヶ月を上限として治療を行った。収容人数は当初四十人ほどであったが、後に百七十人にまで増えたと言う。ただ、それにしては聊か小さ過ぎるように思えた。或いは年を経て幾らか増設や改築などが行われたのであろうか。

           明治に入ると、文京区には多くの文人達が集まった。同館の周辺にも石川啄木・樋口一葉・徳田秋声・宮沢賢治・坪内逍遥・幸田露伴などの旧宅やゆかりの地が残っている。また少し足を伸ばせば、夏目漱石や森鴎外の旧居跡が残る「団子坂」に行く事が出来る。ここは江戸川乱歩「D坂の殺人事件」の舞台としても有名であるが、嘗ては菊人形が大変有名であり、常設展でも菊人形の頭の部分が展示されていたのであるが、同館発行の『文京ふるさと歴史観だより』17号によると「黒木将軍」の菊人形の頭が委託されてあるというのである。これは日露戦争で第一軍を率いて戦った黒木為呂里海箸任△蝓当時はこのような日清・日露戦争を題材とした菊人形などがあったらしい。恐らく「黒木将軍」だけではなく「乃木大将」やら「東郷大将」などもあったに違いない。



          炭団坂炭団坂

           外に出ると既に夕方の風情であったが、折角であるので常磐会寄宿舎の跡地に赴いた。常磐会とは旧松山藩主であった久松家が地元の師弟の為に行った教育事業の名であり、この地にあった坪内逍遥の旧宅を買い取って寄宿舎とした。ここには常磐会の援助を受けて東京に遊学している正岡子規が暮らしていた事がある。その目の前は「炭団坂」という急な坂道があり、何でも江戸屈指の急坂と言われていたそうだ。その名は転げ落ちた人が泥で汚れて炭団のようになったから名づけられたという、尤もらしい説まであるが真偽は定かではない。ただ春の夕暮れ、ぼんやりと往時を思いつつ坂道を眺めるというのも悪くはないものである。腰を上げて「かねやす」の向こう側にある家路を辿る事にした頃には、既に月が見えようとしていた。



          是非、ワンクリックをお願い致します。
          2
          是非クリックお願いします

          表示中の記事
          Amazonリンク
          カテゴリ
          検索
          メールフォーム
          ご感想等はこちらからお願いします
          過去記事
          プロフィール
          リンク
          そのほか
          Mobile
          qrcode
          Powered by
          30days Album
          無料ブログ作成サービス JUGEM