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第10回 [3人の神様]木下淑夫


激戦、関西鉄道対官営鉄道

 日本の鉄道を生まれ変わらせた「3人の神様」シリーズの最後は、「営業の神様」こと木下淑夫(きのしたよしお)です。これまでこのシリーズで取り上げた結城弘毅と島安次郎は国有化される前の私鉄の出身でしたが、木下は国有鉄道出身で、国有鉄道のサービス向上に努め、その後の国鉄、JRへと続く営業制度の基盤を作り上げた人物です。
彼は1874(明治7)年に京都府熊野郡の酒造家木下善兵衛の次男として生まれました。年齢的には島の4歳下、結城の4歳上とちょうど中間にあたる人物です。1898(明治31)年に東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、引き続き大学院で法律と経済を学びました。1899(明治32)年に在学のまま逓信省鉄道作業局工務部に鉄道技師として就職、1902(明治35年)には鉄道作業局の運輸部旅客掛長になります。

この時、国有鉄道が直面していたのは名古屋〜大阪間を並行する私鉄関西鉄道との壮絶な競争でした。前回取り上げた島安次郎(http://tokyosigaku.jugem.jp/?eid=195)は、1894(明治27)年に関西鉄道に入社し、関西鉄道のサービス水準を大きく向上させて並行する官鉄線を圧倒しました。木下が旅客係長になった1902年には、島は既に関西鉄道を退職していましたが、関西鉄道は島の作り上げた高速度・高品質な鉄道サービスを武器に官鉄に対して前代未聞の価格勝負を挑んできたのです。官営鉄道では6円80銭だった一等車を4円にまで値下げしたのです。
官営鉄道とはいえひとつの営利事業です。関西鉄道に殺到する旅客を、指をくわえて見ているわけにはいきません。官鉄も対抗措置として割引運賃を始めます。その陣頭指揮をとったのが若き旅客係長木下でした。官鉄は一等車を5円まで値下げし、三等車では関西鉄道より50銭安い1円50銭としました。木下は時刻表をそえて案内チラシを広く配布し、関西鉄道への対抗を大々的にPRします。これは、これまで「乗せてやっている」という態度でお客を見ていた官営鉄道には前例のないことでした。
関西鉄道はすぐに三等車では同額、二等車は官鉄よりも50銭安い往復切符を設定します。両社の争いは割引に加えて弁当をつけたりおまけをつけたりと加熱の一途を辿りますが、ついには政治問題化し、1904(明治37)年に政界や財界からの申し入れもあって両社の破滅的な競争は幕を閉じました。

鉄道サービスの開花

関西鉄道との壮絶な営業合戦を戦い抜いた木下は鉄道のサービスについてさらに学ぶべく、同1904年に自費でアメリカに留学します。官営鉄道としても木下の手腕に期待すること大きく、翌1905(明治38)年に留学生制度を設立して官費で支援をし、アメリカに加えイギリス、ドイツなどヨーロッパ諸国にまで足を延ばして鉄道を学び、1907年(明治40)年に帰国します。帰国した木下は鉄道局旅客課長に就任し、今度は鉄道国有化の最前線に立つことになります。日本全国の17私鉄を買収し、一気に巨大なネットワークを保有することになった国有鉄道ですが、各社寄せ集めの設備、規定の整理が急務でした。木下は各社の運輸規定を参考に、必要の都度積み上げ式に作られてきた複雑な規定を整理するとともに、アメリカ式のサービス主義・営業主義を取り入れた国有鉄道の営業規定を作り上げます。この作業には4年もの月日が費やされました。
さらに定期券割引制度の創設、時刻表の整備、特急列車の導入、営業所(今で言うみどりの窓口)の開設、回遊列車(今で言う観光用臨時列車)の設定など、これまでになかったサービスを次々に導入します。現在に通じる営業サービスの多くは明治末から大正はじめにかけて木下の手によって導入されたものでした。
さらに1911(明治44)には「汽車中の共同生活」なる旅客へのマナー啓発を説いた冊子を作成して配布しました。ここでは「乗降は降りる人が先」「座席は一人一席」「老人や子供、女性に座席を譲ること」「車内清掃」など今に通じる乗車マナーが説かれています。

木下淑夫の描いた鉄道像

 木下は鉄道を国内に閉じたネットワークとは考えていませんでした。鉄道はそのまま海外へ、大陸へとつながり、外国人旅客を広く招き入れるためのツールと捉えていました。日本初の特急列車も東京から下関まで繋ぎ、そこから連絡船で朝鮮半島へと渡る国際連絡列車として設定されています。またロシアや中国との国際連絡協定締結にも尽力しています。
 木下は留学中に外国人が日本のことを理解していないことを痛感します。日本のことをもっと知ってもらい、日本を好きになって欲しい、そのためには百聞は一見に如かずとの考えから、彼は国際観光事業を強く推進し、外国人旅客の誘致に努めます。その過程で1912(明治45)年に木下が原敬首相に直談判して創設したのが「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」つまり日本交通公社(1963年に民営化、現在のJTB)でした。ジャパン・ツーリスト・ビューローの本社は東京駅に設置され、さらに東京駅には「東京ステーションホテル」が開設されます。
 

10
 これほどまでに日本の鉄道の基礎を作り上げた木下でしたが、病に冒され、1922(大正10)年に病気休職、1923(大正11)年9月6日に48歳の若さでこの世を去ります。彼は病床にあっても鉄道の研究を続け、鉄道の未来像を描いていました。これからは自動車の時代が到来する、鉄道は赤字線の建設をやめてバスを開通させ、幹線の改良に資金を投入しなければ鉄道は立ち行かなくなると木下は記しています。彼の予言は的中し、国鉄は経営難に陥りますが、JRとして再生します。木下が撒いた種は、80年以上が経過してやっと芽を出しています。きっと彼は、外国人観光客が新幹線に乗って日本中を周遊している姿を、穏やかな笑みで眼下に眺めていることでしょう。

(第3シリーズ終わり)




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[過去記事]
第9回 [3人の神様]島安次郎
第8回 [3人の神様]結城弘毅
第7回 [改軌論争]原敬と我田引鉄
第6回 [改軌論争]後藤新平と大陸政策
第5回 [改軌論争]鉄道国有化と改軌論争
第4回 [鉄道創成期]私鉄の発展と鉄道国有化論
第3回 [鉄道創成期]鉄道政策鼎立時代
第2回 [鉄道創成期]明治政府の方針転換と私営鉄道成立
第1回 [鉄道創成期]井上勝の鉄道構想
「鉄人の軌跡」 予告編
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