第5回 東京都市改造計画


東京の近代化

 幕府という封建主義体制を打破し、近代国家を目指してみても、目の前に広がるのは旧来の江戸の街並みのまま。それどころか江戸を捨て地元に帰っていく諸藩大名たちの屋敷は引き倒され、各地は荒れ放題だったということはこれまでも触れました。
またご存知のとおり、江戸は火災の多い街でした。それは年号が明治になっても同じこと。1871(明治4)年には銀座付近で大火が発生し、一帯は焼け野原になってしまいます。

 明治新政府はこの火災を「東京不燃化」しいては「東京近代化」への好機ととらえ、焼け跡に大規模な近代的街区を建設することを決定します。世に有名な「銀座煉瓦街」です。煉瓦街は煉瓦造りの建物が立て並んだだけではありません。曲がりくねった街路を整理し、メインストリートを拡幅、馬車と人間が共存できる近代的な街並みが誕生しました。またガス灯に明かりがともり、それは近代東京の新しい姿を予感させるものでした。
 この銀座煉瓦街の評価は様々ですが、形はどうであれ、これを端緒に旧来の「江戸」の瓦葺屋根は禁止され、建物は道路沿いから順々に煉瓦造、石造、倉造を原則として不燃化が進められます。東京の最初の課題、それは不燃化への取り組みでした。明治10年代に入ってもしばしば大火は発生しましたが、明治15年頃には概ね東京の不燃化は達成されました。

 続いて「東京改造」の槍玉に上がったのが中央官庁街です。特に不平等条約改正を目指す明治政府としてみれば、交渉の舞台となる首都の「見栄え」は国の威信そのものだったからです。日々ダンスに明け暮れていたと言われる鹿鳴館や、ベックマンやエンデといったお雇い外国人による中央官庁街設計案はこういった政治的背景から「外務大臣」井上馨主導で進められました。外務大臣が首都の都市計画に口を挟むとは今の感覚からすれば想像がつきませんが、彼らは東京中央ステーションを中心に、ミカド大通りなどと名付けられた壮大な欧州バロック風の官庁街を計画します。結局、これらの試みは井上外相の失脚と共に頓挫し、数棟の建物を除いて実現することはありませんでした。このように「首都東京」と「都市東京」の綱引きは明治から常に続く大きな問題であると言えるでしょう。

市区改正問題

 そんな中、「都市東京」をどのように改造するか、東京の立場から広い視点で本格的な議論が始まります。それは活気を失った東京をどのように蘇らせるかという現実に直面した議論でもありました。
 そのためには分散した富を東京中心部の徒歩圏に囲い込んで「東京中央市区」を作らねばならないという考えが浮上します。かつての江戸の範囲すべての防火問題、衛生問題を解決するには資金は足らず、そもそもそこまでの人口すらいないのが現実です。無秩序に再生を求めるのではなく、中央市区を囲い、道路等期間施設の改造、官庁、工場などの建設をすすめ、そこを足がかりに街の繁栄を取り戻していこうという考え方でした。それが下の図の中央に青く塗った部分です。「東京」はこんな小さな範囲からの再出発を迫られていたのです。
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ところが、中央市区論は中央市区の設定範囲やその用途、さらには横浜とは別に東京に港を築くといった東京築港論まで登場し、東京の将来像がまとまりきらないまま松田知事が急逝、議論は収束してしまいます。
しかし、1882(明治15)年に松田の後を継いだ芳川顕正知事はそのような突飛な都市論ではなく、地に足のついた東京改造計画、「市区改正意見書」を発表します。「市区改正」とは聞きなれない言葉ですが、現在の「都市計画」に相当する言葉だと考えてください。
芳川の意見書は、次第に増えていく交通量に対し、江戸時代の面影を引きずる狭隘な道路といった問題を解決すべく、地図上の紫色のエリア内を中心として、道路整備、橋梁整備、運河整備、鉄道整備といった交通問題の解決を中心とする現実的な案でした。

 1884(明治17)年、芳川案は府から内務省に上申され、内務省内に「市区改正審査会」が設置されることになります。しかし、審査会での議論はまたも各方面の思惑によって振り回されて思うように進みません。特に前述の外務省による「官庁街整備計画」が優先される形となり、市区改正論は1887(明治20年)頃まで棚上げされてしまいます。ところが、井上外相が失脚すると、内務大臣山県有朋と大蔵大臣松方正義が元老院の反対をも強行に突破する形で「市区改正条例」公布を内閣に要求し、ついに1888(明治21)年8月に市区改正条例が成立します。あわせて新しく「東京市区改正委員会」が設立され、委員会の決定に従って東京の都市計画が遂行されることが決まります。

 これを後押しした大きな転機として挙げられるのは、明治20年を境として松方デフレが収束し、経済状況が好転したという点です。経済成長につれて東京の人口も次第に回復しはじめます。市区改正委員会案は、もはやコンパクトな「中央市区」ではなく、江戸時代の規模を上回る人口200万人を想定した都市計画を推進していくことになるのです。

 さあ、東京はやっと国から距離を置いて街づくりを始めます。その大きな課題は乗合馬車であったり、人力車であったり、前回触れた新しい乗り物「馬車鉄道」であり、彼らが人間と共存しながら通行するための道路整備から始まるのですが、一方で全く新しい文明の利器「鉄道」に対する期待も大きなものがありました。次回は市区改正委員会において、鉄道がどのように議論されていったかを、そしてそこから芽生える「都市交通」の誕生を見ていきましょう。


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第4回 馬車鉄道の時代
第3回 「首都東京」を中心にした鉄道の発達
第2回 「東京」の誕生と新しい交通機関
第1回 江戸から東京へ

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    04 I'm So Tired


    【外国官】

    慶応四年(一八六八)閏四月一日、少し前に江戸城は無血開城、近藤勇が板橋の刑場の露と消え、東北では長岡や会津に戦雲が迫っていた頃。パークス公使は東本願寺に行幸中の天皇に謁見、ヴィクトリア女王が親署した国書を捧呈した。これは大英帝国が諸外国に先立ち、新政府を日本の代表として承認したということに他ならない。この時、アーネスト・サトウ書記官からは明治天皇は恥ずかしがっておずおずとしているように見えたそうである。また余談であるが、この翌日に開かれた祝宴で、長州藩主である毛利敬親がシャンパンでしたたかに酔い、「大きい赤ん坊のように」ふるまったという。サトウ書記官はこれに対して「日本の諸侯は馬鹿だが、馬鹿になるように教育されてきたのだから、責める方が無理」と実に辛辣な評を寄せている。ただ「そうせい侯」は賢愚定かならざる所が魅力なのである、ということにしておこう。

    さて、引き続いて新政府は、十一日に「政体書」を発布、官制を改定して外国との折衝に当たる「外国官」を設置した。伊達宗城は知官事としてこの組織の長となり、東久世通禧が副知事としてこれを補佐する任を受けた。この時、後に早稲田大学を創立する大隈重信も外国官判事に就任しており、日本国内のキリスト教徒に関する問題、幕府がフランスの借款を受けて作った横須賀造船所の接収、またかの有名な宮古湾海戦の焦点となる「甲鉄艦」の受領など、重要な案件の解決に当たっている。

    【東へ西へ】

    慶応四年(一八六八)九月八日、年号は「明治」と改められた。天皇は江戸へ行幸し、同地は「東京」と改名される。これに伴い、外国官も江戸への移転を開始した。東京府は外国官に対し、神田橋外の山田十大夫旧邸を交付、また伊達宗城は南八丁堀の伊達締之助旧邸、東久世通禧は築地木挽町の松平康直旧邸に入った。これらは今でこそ地下鉄等を使えば直ぐの距離である。しかし当時としては余りに離れているということになり、外国官を築地数馬橋の小笠原長常旧邸へ移すことになったが、これは手狭であるということで、改めて築地小田原町の戸川鉾三郎旧邸へ引っ越した。しかしそれも束の間、明けて明治二年(一八六九)になると今度は京都より官員すべてが江戸に移動したことから、再び官地の交付を申請せねばならなくなり、結局は築地二ノ橋の畠山義勇旧邸へ落ち着いた。因みに、外国官が外務省と名を変え、現在の霞ヶ関へ移動するのは明治三年(一八七〇)十二月のことである。

    【賢侯の退場】

    このようにバタバタとしている間にも、外国人とのトラブルは続いている。明治二年(一八六九)三月十九日、仏公使館の通訳官・ジブスケが横浜市内において背後から棍棒で殴打されて気絶、二十一日には ロバートソン英国副領事代理が品川付近にて突然、馬車よりの下車を要求されている。二十二日にはパークス公使、二十三日には英国軍艦「オーシャン」号のスタノップ艦長も同じ行為を受けている。どうやら、これらの出来事はパークス公使を激怒させるものであったようで、日本政府に対する不信を表明、警護の為の軍隊配置を強く要求してきた。

    これに対し、大隈重信・中井弘の両名が直接的に折衝に当たったが、結局はパークス公使の要求を容れて横浜市運上所角・本町通角への軍隊配置を了承する事になった。この一件の落着とほぼ同時に、伊達宗城は外国官知官事への辞意を表明する。岩倉具視に送った書状によると、パークス公使の「怒罵愚弄」は甚だしく、如何に「鉄面皮」の自分でも堪え難いものであり、それでもこの馬車一件が解決するまではと我慢していた、と述べている。かつての英国公使館の面々との交歓を思うと隔世の感があるが、あれはまだ三年ほど前の話である。パークスの「怒罵愚弄」が果たして如何なるものであったのか、今は知る由もないのであるが、この少し前にもパークスはキリスト教徒に関する問題を巡って、木戸孝允にも暴言を吐いており、サトウ書記官から「あれでは日本人があなたと会見するのを怖がるようになる」と意見されている。この辺りから察するにあの特徴的なもみあげを逆立てながら、さぞ凄まじい罵詈雑言を吐き散らしたであろうことは想像に難くない。ともあれ、この間に起きた様々な外交問題は、伊達宗城の心身を相当に疲労させてしまっていたようである。岩倉具視は幾度も慰留を試みたが、遂に明治二年(一八六九)六月二十六日、伊達宗城の辞表は受理されてしまう。この頃、既にパークス公使からの申し出による英国王子の訪日が決定しており、正にその準備を進める中での降板であった。

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      江戸の遺産 


      現在、千代田区立日比谷図書文化館では特別展「文化都市千代田−江戸の中心から東京の中心へ−」を開催中である。江戸から明治への移り変わる時代を扱う際、その多くは文明開化に伴う変化、言わば断絶面に着目されることが多い。しかし今回の特別展では、地域住民の視点から生活や社会における連続面を中心に、これを捉えなおそうという試みがなされている。

      幕末期、現在の千代田区に当たる地域は武家地・町人地・寺社地に分かれていた。これらは江戸から東京へと移行していく中で、都市の中心としての地位を失うことなく再編されていくという。なるほど丸の内は今でもなお東京の中心である。これは新たな近代都市を建設する為の用地の調達をどうするかと考えた場合、当然の帰結であるように思われる。勿論、明治の初期には大阪への遷都論もあったが、この点で江戸への「遷都」という選択肢が最も合理的なものと判断されたであろう事は想像に難くない。

      さて、先ず武家地について見ていこう。参勤交代で江戸に来ている大名の居住地である各藩の上屋敷は、広大な敷地を有することから、そのまま霞ヶ関・永田町と行ったような官庁街となっていった。また、かつて多くの幕臣が集住した番町界隈も、彼等が徳川慶喜に従って静岡へ移って行ったことから、官吏にその主を変えていくのである。特別展では数々の事例からその様子が紹介されているが、特に佐野直勝という人物についての展示が目を引いた。

      明治五年(一八七二)五月、琉球国王・尚泰を「藩王」とする「琉球藩」が誕生。早速、東京は飯田町(現在の飯田橋の辺り)に出先機関である琉球藩邸が設けられたのであるが、佐野直勝はここに取次番として出仕することになる。これには二年の任期があったようで、特別展では複数の辞令書が見られたが、明治十一年(一八七八)九月のものは、当時の小禄親方の黒印が付されており、琉球藩の最末期における文書形式の一端を垣間見る事が出来る非常に貴重な史料である。

      次に町人地である。神田や麹町の町人地も旧来の商家に変わって、新時代に即した商品を扱う商店が軒を連ねるようになっていった。但し、かつての商家が必ずしも新興の商店に淘汰されていったのではない。中には新たな商機を見出していくものも現われた。神田鍛冶町の金物問屋・紀伊国屋はその代表と言える。

      主に銅・真鍮を扱うことで財をなした紀伊国屋は、ほぼ江戸期を通じて豪商として知られていた。また日米和親条約が締結されるや、これらの輸出を行うようになる。明治維新の混乱の中、慶応二年(一八六六)六月に打ち壊しにあうなどしているが、金物業界の再編に奔走、日露戦争に際しては弾丸の薬莢用の真鍮板を請け負うことに成功している。

      最後に寺社地であるが、明治維新に伴う「廃仏毀釈」などとして現われた価値観の変容は、多くの寺社に混乱を与えたようである。特別展では平河天神や神田明神の事例を取りあげている。平河天神は併設されていた寺院が廃され、寺社部分のみが現代まで存続することとなった。また神田明神に関しては「廃仏毀釈」とは少し異なるが、明治天皇の行幸に際し、「新皇」を称して朝廷に反逆した平将門を祭神とすることが問題視され、慌ててこれを別祠に移したことが紹介されている。また同社が山王権現(現在の日枝神社)と隔年で行っていた「神田祭」の変遷についても語られており、将軍の上覧や江戸城への入場というこの祭りの特権が失われたことにより、次第に衰微していく様が示されている。

      この様な中、明治二十二年(一八八九)に上野公園にて「東京開市三百年祭」が催された。これは榎本武揚・渋沢栄一らの旧幕臣や大倉喜八郎・安田善次郎などの財界人を中心にして行われたもので、江戸期の回顧する活動の契機となったようである。この折に「江戸会」や「南北会」などの旧幕臣の会が多く生まれ、江戸期の記録が盛んに編纂・出版された。特別展でも「南北会」の記録などから復元された北町奉行所の「玄旗」と南町奉行所の「南旗」が展示されている。この頃には既に江戸は懐古の対象となりつつあったという事であろうが、それは同時に改めて「江戸の遺産」を後世に受け継いで行こうとする営みでもあったように思う。

      ○文化都市千代田─江戸の中心から東京の中心へ─

      ■会場:千代田区立日比谷図書文化館 1階 特別展示室

      ■会期:2012年 1月17日(火)〜3月11日(日)

      ■開館時間:10:00〜18:00(月〜土)/10:00〜17:00(日・祝)

      ■休館日:2月20日(月)

      ■観覧料:無料


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        『堀部安兵衛』池波正太郎



        続く


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          第4回 馬車鉄道の時代


          ターミナルを結ぶ

           廃藩置県を断行し、各地の不平士族を鎮圧した明治政府は、東京への中央集権を確立します。東京から地方に散るばかりだった人口は経済の成長と共に再び東京に戻り始め、1881(明治14)年には新市域114 万人と維新時の倍にまで回復、1880年代は真に江戸が東京へと生まれ変わる10年間となります。
          第3回で触れた日本初の私鉄こと日本鉄道が高崎方面に通じる路線や、赤羽と品川をつなぐ官線との連絡線を建設したのもこの時代です。しかし、東京が活気に満ちるにつれて、一足早く東京の中心部を新しい交通機関が走りはじめます。それが「馬車鉄道」でした。

           馬車鉄道は1882(明治15)年6月25日に開業した馬車鉄道は、鉄のレールに乗った客車を馬が牽く「畜力と機械力の過渡的結合体(藤森照信)」は都市の交通に革命的な変化をもたらしました。文明開化と共に馬車や乗合馬車は導入されていたものの、未舗装かつ狭く折れ曲がっていた江戸の極めて悪い道路事情では、乗り心地が悪いだけでなく輸送力そのものとしての真価を発揮できずにいました。ところが、大通りに敷設された馬車鉄道は、抵抗の少ない鉄のレール上を鉄輪の客車が転がっていく非常に効率のよい乗り物です。

           レールの発明は古代ローマの馬車の轍に遡るともいわれていますが、繰り返し繰り返し車輪が走る溝を木や金属で補強するという考えは比較的古くからありました。16世紀のドイツの鉱山では木製のレールに木製のトロッコを走らせていた記録もあります。その後、18世紀から19世紀初頭にかけて鉄製のレールが発明され、世界初の馬車鉄道は1807年に開業したと言われています。
           下の写真は世界初の馬車鉄道のものといわれていますが、これだけ大きな客車を馬一匹で牽けるということは、それまで2頭立てや4頭立てで走らせていた馬車とは比較にもならない効率性だということがわかります。

          馬車鉄道

          東京馬車鉄道の設立

           こうして馬車鉄道が東京を走り始めます。馬車が走ったのは東京のメインストリート、新橋〜上野〜浅草間(下図のオレンジ色の線)でした。1882年に開業した段階ではまだ上野駅は開業していませんし、品川線も開通していません。ですから、この模式図は1885年頃のものと考えてください。民家が密集し鉄道が立ち入ることの出来なかった江戸以来のメインストリートを鉄道馬車が結んでいることがわかります。

          第4回

           運賃は馬車や人力車に比べて格段にやすく、庶民にとっては荷物があるときや、風雨の時には身近に利用されるようになりました。これまでに登場していた馬車や人力車は主に貴族の乗り物でしたが、馬車鉄道こそ庶民が初めて手に入れた日常の交通手段でした。明治21(1888)年の調べによると、440頭の車馬が58両の客車を走らせ、1日平均2万1,843人を運んだという記録残っています。
           しかしこの鉄道を引くのは馬、生き物なので当然ながら草を食べ水を飲み糞尿をします。しかもメインストリートを歩きながら遠慮なくぶりぶりと撒き散らすわけです。これには周囲の商店街からも苦情が殺到し、馬車鉄道の禁止願いが出されたこともありました。また道路を破損させたり、人力車や歩行者と接触事故を起こすなど、これまでの「東京」と共存するにはいくつもの難のある乗り物だったのです。
           当然議会でも問題になりますが、30年の営業許諾契約を出してしまっていること、その便利さは周知のこととなり今更禁止などできないことから、馬車鉄道に道路拡幅費用を負担させ、道路を馬車鉄道にふさわしいものへと変えていくことで東京は馬車鉄道と共存の道を選びます。馬車鉄道は1903年に電車に取って代わられるまでの約20年間、庶民の貴重な足であり続けたのです。

           さて、明治20年代は東京が大きく姿を変えた年であると書きました。その一つは様々な鉄道の開通であり、馬車鉄道の登場であり、都市計画の進展でした。次回はちょっと鉄道から離れて、この頃の東京が一体どのような都市を目指していたのか、日本最初の「都市計画」を見てみましょう。



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            【襲われる男】

            ハリー・パークス駐日英国公使は兎角、襲われる男である。

            清国在任中から、何の罪によってか兵士に石もて打たれるであるとか、英清両国の講和交渉中に突然捕えられて投獄されたりするなど、既に大小さまざまな危機に遭遇している。日本におけるその最初の事件は、慶応二年(一八六六)十一月二十五日、品川を騎馬で通行中、人吉藩士に抜き身の刀で襲撃されたというものであった。この時、パークス公使は日本人の護衛隊を伴っていたにも関わらず、彼等がその任務を十分に果たし得なかった為、自らピストルにて反撃せねばならなかった。また前述の「神戸事件」の折にも、その巻き添えで備前藩兵からの銃撃に晒されている。更にその後にも幾度か襲撃を受けており、日本在任中に彼の命を狙ったとされるものだけでも実に十二回以上を数える。その数多い事例の中でも特に著名なものがこれから述べる京都における襲撃事件である。

            慶応四年(一八六八)二月十七日、新政府は列国公使を宮中に招いて天皇と会見させる旨を布告した。これは外交官を受け入れるという象徴的な意味合いを持つ行事である。現在でも各国の外交官は着任すると皇居に参内して天皇と会見を行う事になっており、これはその最初と言える。早速、二十四日には伊達宗城が英・仏・蘭の公使と会談、二十九日に列国公使は入洛して、三十日に参内するという手筈を整えた。これに合わせ、二十七日に新政府は改めて天皇の意思として外国との和親を行っていく旨の命令を発する。ここで改めて新政府が可憐なまでに繰り返し外国との通交、和親開国への方針転換を天皇の名の下に宣言していることに注目しておきたい。しかし、この様な努力は、結果として無視されてしまうのである。

            【そして再び】

            二月三十日の朝、英・仏・蘭の公使は天皇との謁見の為にそれぞれの宿舎を出発した。騎乗のパークス公使も、数多の見物人の視線を意にも介さず、都大路を進んで行く。行列が四条畷に差し掛かった時、事件は起きる。突然、抜刀した二人の浪人が切りかかったのである。襲撃者は三枝蓊(さえぐさしげる)・朱雀操の両名であった。彼等は共に勤皇家とされる鷲尾隆聚の高野山挙兵に参加、そのまま天皇と御所を守る御親兵となっていた人物である。過激な攘夷思想を持つ彼等は、新政府による和親開国の方針、また「堺事件」の処分について強い不満を持っていた。そのような彼等にとって列国公使が天皇と直接に会見するなど許せない事であった。

            襲いかかる彼等に対して、護衛の兵士は殆ど役にたたなかった。この時、パークス公使は賊によってベルトを切られ、同行のアーネスト・サトウ書記官も乗馬を傷つけられていることからも、かなり際どい状況まで追い込まれていたが分かる。しかし、パークス公使の側にいた中井弘・後藤象二郎の二人が必死に応戦した事によって、三枝蓊を捕縛、朱雀操をその場で討ち果たし、何とか危機を脱したのである。なお、別ルートで御所へ向かった仏・蘭の公使は襲撃を受けておらず、そのまま参内を済ませており、パークス公使のみ後日改めて会見を行う事となった。

            余談であるが、司馬遼太郎はその作品「最後の攘夷志士」の中で、かつて天誅組の同志であり、明治維新以降に男爵となった、北畠治房・石田英吉の二名を持ち出し、三枝蓊・朱雀操と比較して、「節を守り、節に殉ずるところ、はるかに醇乎としている」と評している。しかし、一体その「節」とは何であり、またそれを守る為にパークス公使をどうしても殺害する必要がどうあったかについては説明がなされていない。また何故、共に高野山で挙兵し、王政復古後も外国人の排斥を唱えておきながら、そのまま新政府の禄を食んで伯爵にまでなった鷲尾隆聚は否定の対象とならず、天誅組以降は殆ど関わりがない彼等を持ち出して批判したのかも分からない。このように本作には釈然としない点が多いし、疑問は尽きない所であるが、今となってはその答えを知る術はない。

            さて、この襲撃は新政府を震撼させたと見えて、三月七日に再び外国人に対する暴行を禁ずる布告を発している。しかし、このように天皇との会見に赴く公使すら、白昼堂々襲撃を受ける当時の日本は、英国王子が訪問するには極めて危険な国であった。故に新政府が何とか理由を付けて、これを断りたいと考えたとしても何の不思議もない。しかし、そんな彼等に神の救いの手は遂に差し伸べられなかったのである。しかも新たな試練はそこまで迫っていた。

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              続・江戸の話 二


              江戸は、今日ほどではないにしても、巨大な都市である。人・物を輸送することは都市基盤の枢要であり、江戸でも輸送手段は相応に発達した。今回は人の陸運、駕籠の話である。船については、別の機会にしよう。

               ちなみに、幕末ともなれば馬車もある。ただし、荷物運送に牛車や馬車が使用されていることは間違いないが、邦人が馬車に乗って移動したかまではよく分からない。幕末に日本を訪れていた外国人は馬車を用いている。スネル兄弟が沼田藩士に襲われた時には馬車に乗っていたし、安藤広重『東海道絵図』にも馬車が描かれている。明治に入ると早々に夜中の無灯通行や、狭隘・混雑の所での馳駆を禁じたから、普及は早かったようである。駕籠が馬車や人力車に役割をゆずるのは果たしていつ頃のことであったかは、詳らかではない。

               閑話休題。
               江戸の駕籠を<罾(よつで)>と言う。「四つ手駕籠」である。『守貞謾稿』には、「或書に罾をよつでと訓ぜり正字歟未考四つ手江戸民間の専用のかご也京坂には無之」とある。この<四つ手>、「今世四つ手の数万を以て数ふべし」という隆盛ぶりである。『江戸自慢』には、
              「一、大抵町ごとに駕籠屋あり、又町はづれの往来繁き所には、五挺も六挺も出張りて客を待、ホイ〳〵と声を掛ケ走る故に、ホイ〳〵かごと言、帰りを急ぐ者、草臥し者、中ニは銭をお足の名に愛て伊達ニのるうわき者もあり、若イも道ニ迷ひて暮に及び、或ハ遠方ニ而(て)雨の降り出し時ハ、必傭(やとい)て乗るを上分別と言べし」
              とある。駕籠屋の数は多く、路上で客待をしている駕籠もあるというから、利用には至極便利であった。道に迷ったり雨の際には駕籠を用いるのが「上分別」だという。ただしこの使い方、必ずしも江戸人と同様ではない。『守貞謾稿』には、
              「大坂は地広からず花街柳巷ともに路近を以て往くにかごを用ふる人無之帰路のみ用之は雨天或は深更又は酩酊なれば也」
              とある。雨天・夜中・酩酊時の帰路にのみ駕籠を用いるのは、大坂の風であるという。余談だが、『守貞謾稿』によれば、往来で客待する駕籠を「辻駕籠」と言う。「辻駕籠と云は路上に客を待て乗たる故の名歟」とある。この辻駕籠の客待、なかなか迷惑なもので、
              「今は諸所に駕籠屋あれども亦行人多き所には夜は路傍に彳(たたず)み客を待つ暗夜など不意に往くに彼かごやだんかごと呼ぶ旦那かご如何の略なり不意なれば駭(おどろ)くことあり」
              とあり、夜中に道ばたで「だんかご」(「旦那、駕籠(は)如何?」の略)と突然声を掛けてきて驚かされる。なかなか困った客引きである。

               江戸の駕籠の売りは、その早さであった。『守貞謾稿』はその理由を、
              「江戸は吉原及其他柳巷ともに路遠きが故に往くに専ら四つ手を用ひ其疾きを旨とす江戸の地広きに応ずる也」
              と、京坂と比べて江戸が広大であるからと考察する。急ぐときには、
              「四つ手を急速を専らとする時は二夫一歩毎各発声して「はあんほう」と云也俗に掛声と云也因に云大坂にても正月十日今宮詣の遊女かごのみ一歩毎に「ほいほら」と掛声す」
              と駕籠舁が「掛声」をしながら走った。より早く移動したい時には、駕籠舁を増やした。三人・四人で駕籠を舁く。この場合、四人で同時に駕籠を舁くのではなく、二人ずつ交代である。
               お代はと言うと、
              「四つ手賃銭日本橋辺より新吉原大門迄大略金二朱即銭にて八百文ばかり也三夫四夫にて輪替し舁くも准(なぞらえ)之て金三朱四夫は一分也」
              と言う。日本橋から新吉原まで駕籠舁四人を傭えば一分になるから、決して安く無い。

               もっともこの場合、新吉原ではそれ以上の散財をするのだから、そうした<お楽しみ>の一部と考えるなら、それほど高いとまでは言えないかもしれない。とはいえ、貧乏書生たる当方には手が出そうにないのだが。


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                『堀部安兵衛』文・吉行淳之介 / え・黒鉄ヒロシ


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                  第3回 「首都東京」を中心にした鉄道の発達


                  陸蒸気がゆく

                   前回のおさらいです。日本で初めての鉄道は1872年10月14日、新橋〜横浜間で開業しました。今では東海道線と呼ばれている区間ですが、この当時はそのまま横浜から先を伸ばしていって東海道を大阪方面まで結ぶつもりはなく、東京と貿易港だった横浜をつなぐための支線だったと言われています。10月14日は今でも日本鉄道史における記念すべき日として「鉄道記念日」と制定され、様々なイベントなどが行われています。

                  第3回

                  最初は陸軍にも敬遠され、沿線の住民には土地を売ってもらえず、品川〜新橋間は仕方なく海上に築堤して線路を通しなんとか開業にこぎつけた鉄道ですが、新橋と横浜をわずか1時間弱で結ぶ実力を見せつけると次第にその重要性が認知され、日本中を鉄道で結ぼうという機運が高まります。

                  北と南をつなぐ「山手線」

                   しかし、その後の鉄道建設はなかなか進みません。明治10代に入るまでは明治政府は国内平定、つまり度々発生する地方の不平士族の反乱の鎮圧をすすめ国づくり、ましてや「東京づくり」に本格的に着手できていなかったからです。そのため資金不足の明治政府は自らの手で鉄道を延長できずにいました。そこで登場するのが私鉄です。明治10年代に入ると明治政府による支配体制も確固たるものとなり、地方の豪商や華族たちが出資し、実際には英国仕込みの鉄道建設技術を身につけた官営鉄道が建設する体制で各地に鉄道建設ブームが興ります。

                   東京では1883(明治16)年に上野〜熊谷間に日本鉄道が路線を開業させます。現在で言う高崎線の一部です。なぜ高崎線? 地味だな? と思われる向きもあるでしょうが、当時は東京と京都、大阪をつなぐ幹線は中山道ルートを想定していました。熊谷から高崎を通り、碓氷峠を超えて軽井沢、諏訪と山中を越えていくルートです。どう考えても東海道を結んだほうが早いと思われるでしょうが、東海道ルートは陸軍の強硬な反対にあい、つまり戦時に海沿いに鉄道があっては狙われやすいという国防上の理由から、中山道を越えていくルートが選ばれたのです。しかしただでさえお金がないのに山中に鉄道を敷設するのは大きな負担となります。碓氷峠は長野新幹線(北陸新幹線)が1998(平成10)年に開業するまでずっと輸送上のネックでありつづけました。結局、東京と京都を結ぶのは東海道で良いということになり、東海道線が全通するのが日清戦争が勃発する1889(明治22)年です。

                   話がずいぶん脇道にそれてしまいました。ともあれ上野から北に進むルートが建設されはじめるのが1883年です。ここで地図を見てみると、なぜ新橋と上野の間に線路を通さないのだろうと不思議に思われるかもしれません。しかし、この間が結ばれるのは1925(大正14年)さらに40年も先のことです。なぜ新橋と上野が結ばれなかったか、それはこの間には江戸以来の市街地が広がっており、そこを汽車で貫くなど技術的にも資金的にもまだまだ現実的でない時代だったからです。しかし、この間がつながっていなければせっかく北から来た人も物資も不便で仕方ありません。そこで1885(明治18)年に官営鉄道と日本鉄道を連絡するための路線として日本鉄道品川線が作られます。この路線はできるだけスムーズに両線をつなぐために東京市の外側、つまり郊外に建設されました。この品川線が通ったのが板橋、新宿、渋谷、つまり今の埼京線や山手線の原型となる路線です。今では渋谷が郊外だったなどとは信じられませんが、渋谷駅開業初日はお客が一人もやってこなかったという記録が残っているそうです。つまり、この時点では山手線は東京市街地の人を運ぶ役割など微塵も与えられていないのです。ただ北と南のターミナルをつなぐためのローカル連絡線でしかありませんでした。
                   
                   ともあれ、こうして北に進む路線と南に進む路線がやっと接続されます。そして東京の街を取り囲むようにして山手線の原型となる路線も完成します。しかし、これらの鉄道の役割はあくまでも地方と東京を結ぶことであり、都市の中を移動することではありませんでした。
                   
                   ここでいう都市内交通とは当面東京府の中を移動することと定義します。東京から横浜までちょっと用を済ませに、というのは現在の感覚では特別なことではありませんが、当時は(厳密には現在においても)東京と横浜という両都市をつなぐ都市間輸送だからです。

                   こうして少しずつ鉄道が身近な乗り物になっていきます。すると都市で暮らす人、働く人々の移動も増えていきます。時は金なり。歩いているだけでは時代に追いつけなくなってくるのです。そうして日本の発展とともに、東京が日本の中心として位置づけられるとともに、都市のための新しい交通機関が必要とされるようになります。次回は都市内の交通を変えた公共交通機関の祖「馬車鉄道」の話をしたいと思います。



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                  [過去記事]
                  第2回 「東京」の誕生と新しい交通機関
                  第1回 江戸から東京へ
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                    02 You Can't Do That


                    【出かける前は・・・】

                    慶応四年(一八六八)一月十三日、新政府は東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)を勅使に任じ、岩下方平・寺島宗則・吉井友実・伊藤博文らを随員とする交渉団を大坂へ派遣した。英・米・仏・伊・普・蘭の公使に対し、今後は新政府が内政と外交を行う旨を通告すると共に、前回に述べた「神戸事件」の善後処理を行う為である。

                    一月十五日、新政府は開国和親の方針を採り、外国との交際は「宇内の公法(国際法)」を以って行うべき旨を布告した。またこの日より「東久世交渉団」が現在の神戸税関に相当する神戸運上所において、列国の公使らとの交渉を開始する。日本側は新政府が内政と外交を行う旨の国書の受け取りを求め、同時に「神戸事件」の解決について、英米仏国兵士の占拠地点からの撤退を要求、その条件として責任者の逮捕と各国士官立会いの下での処刑を提案した。

                    これに対し、列国側は「神戸事件」の処理については同意したが、国書の受け取りに関しては、天皇の印璽のみで署名がないのは万国における国書の体裁に則っていないとして拒否した。そこで急いで陸奥宗光を京都に送り、改めて各国別に署名入りの国書を整えてさせることで、やっと列国側に受納させる事ができたのであった。

                    この交渉は明治政府の外国事務担当者と外国使臣とが正式接触を行った最初とされている。余談であるが、明治四年(一八七一)、岩倉具視を正使とする「岩倉使節団」が欧米へ派遣された。東久世通禧はこれに理事官として加わっているが、この際も所謂「不平等条約」改正交渉の際に国書の不備を指摘され、今度は大久保利通・伊藤博文の両名が慌てて帰国する羽目になっている。

                    【青い目の見たハラキリ】

                    二月二日、備前藩は「神戸事件」発生当時の砲兵三番隊長・滝善三郎を責任者として切腹せしめる事を了承する。二月九日、五代友厚・伊藤博文が滝の助命嘆願を行ない、ハリー・パークス駐日英国公使も他国の公使へ寛大な措置を求めたが、何れも拒否された。滝はその日の内に各国士官立会いの下、神戸の永福寺にて切腹して果てた。その様子は英国公使館のアルジャーノン・ミッドフォード書記官や、アーネスト・サトウ通訳官の回想録で知ることが出来るが、それによれば短刀の代わりに三方に載せた扇を取って礼をするのと同時に介錯人が刀でその首を切るという、所謂「扇子腹」ではなく、深々と突き刺した短刀を右脇腹まで引いた見事な割腹であったようだ。

                    さて同じ頃、新政府は外国事務局を設置、伊達宗城は外国事務局補、現代で言う所の外務次官に相当する役職に就いた。二月十四日、伊達宗城らは大坂西本願寺において各国公使と会見、外交事務局の設置を通告すると共に、天皇と各国公使との対面を約束している。その夜遅く、新政府内での議論を経て、会見の実施予定日を二月十八日とすることが決定した。

                    事件が起こるのはその翌日、慶応四年(一八六八)ニ月十五日である。

                    堺を警備していた土佐藩の兵士と、上陸して来たフランス水兵との間でまたも小さな衝突から争闘事件が発生、土佐藩兵の発砲により十一名ものフランス水兵が死亡した。世に言う「堺事件」である。先の「神戸事件」から間もない内に発生したこの事件はレオン・ロッシュ駐日仏国公使を激怒させ、新政府はパークス公使に仲介を依頼すると共に、即座に「堺事件」の前後処理に動き出した。しかし、ロッシュ公使は使者との面会を拒否、以下の要求だけを送りつけてきた。

                    1)堺事件に関与した四十名全ての死刑執行。
                    2)土佐藩は十五万ドルの賠償金を支払。
                    3)外国事務局督・山階宮晃親王の陳謝。
                    4)土佐藩主・山内豊範の陳謝。
                    5)武装した土佐藩士の開港場通行・滞留の厳禁。

                    ニ月二十二日、伊達宗城はロッシュ公使を訪問、要求を全て受諾する旨の文書を手交した。これに従って二十三日には山階宮晃親王がロッシュ公使を訪問して謝罪を行い、堺事件に関与した者の内、二十名の土佐藩士が切腹することになった。

                    森鴎外「堺事件」によれば、この時に切腹した箕浦猪之吉なる武士が、切った腹に手を入れ、内臓の一部を引きずり出したとある。「大網」と特に記してあるのは軍医でもある森鴎外ならではの描写と言えるが、事実であるか否かは不明である。ともあれ、仏国側の申入れにより九名は助命され為、十一名の土佐藩士の命が失われ、また土佐藩が賠償金の支払いを約束したことよって本件はひとまずは落着した。

                    一方、新政府は二月十五日、来たるべき列国公使の入京・参内に際して無礼のないように布達すると共に、「神戸事件」「堺事件」の発生を重く見てか、十七日には攘夷思想を廃し、開国和親の方針を取旨を改めて明らかにしている。しかし「堺事件」に関しては現代でも土佐藩士に同情する声が根強く、まして当時となればなおさらであった。特に過激な攘夷論を唱える者達の間では、新政府の外交方針や事件対応に強い不満が渦巻いていたのである。このような中、新政府は天皇と列国行使の会見というイベントを行おうというのである、勿論ただで済むはずがない。

                    [過去記事]
                    01 Ticket To Ride


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