百年新報 (1912.11.30)


乃木家の跡始末
「東京朝日新聞」1912/11/30

沙々貴神社奉納の旗
同邸引渡は百日祭後

乃木大将の遺志に依り、令弟 大館集作氏は二十九日、江州沙々貴神社に参詣し、大将が自刃決心後、丹生を籠めて造れる三幅対の軸物を奉納せり。中央は小堀鞆音画伯の筆なる祖先 佐々木四郎高綱の肖像、右は高綱の文緘にして「蜂起」と題するもの、左は「中朝事実」中、祖先の祭祀を説きたる一節を倶に大将の謹写せるものなり。

尚、乃木家の始末に就き、大館集作氏語るやう、大将遺書の第六に見ゆる大将の父、祖父君、曾祖父君の書類は沙々貴神社か佐々木侯爵家へ永久無限に預けよとの事なれども、都合にて遊就館に託せんかと目下協議中なり。自刃に用ひたる軍刀短刀及び遺物の大部分は既に同館に納め、蔵書は学習院と長府図書館とに配付済となり、軍馬三頭中、日頃大将の愛乗の一頭は今上陛下より特別の御沙汰を拝したるに依り、謹んで献上し、他は学習院と山田副官とに寄贈せり。

新坂町の邸は留守居の者なく、当惑し居たるに、玉木少佐が幸い金沢より野砲兵一連隊付に転任し来りしかば、当分居住して後始末に当り居れり。何分にも一家俄に全滅したるものなれば、取片付を為す能はず。東京市に引渡す儀も百日歳後とならん。私は大将の遺志に随ひ、不日長府を引払ひ、那須野に居住する積りなり。各地より記念懇望の向多く、殊に大将が連隊長として在勤したる金沢市より遙拝殿のやうのものをたつるに依り、是非ともとの申出であり。其他、日々数通の書信あり。直接来訪者も絶えず、墓前へは朝早くか正午過ぎならでは、ゆっくり礼拝も出来ぬ有様なり。自分は変事当夜、御大喪を奉拝し居たるに、何か知らず帰りたくて仕方なく、十一時頃、無理に帰宅して始めて之を知り、当日夫婦で参内して切腹しなければならぬ程の不調法をせしならんかと恐懼したることあり云々。

【メモ】
乃木家の処理に関する記事。
「一家俄に全滅したるものなれば」の一句の重さ。


台鮮米代用示達
「東京朝日新聞」1912/11/30

農相務省にては、昨秋全国米穀取引所に対し、端境期に於る米価調節策として、台鮮米の受渡代用を内諭し、各米穀取引所は夫々定款又は営業細則に改正を行ひて、本年端境期に於て始めて之を実行せるが、受渡成績良好にして、何れも円滑に行はれ、些の支障なかりしに鑑み、今回更に一年中を通じ、常時台鮮米を受渡に代用せしむるこtに決し、二十九日、地方長官に通牒せるを以て、各取引所は地方長官の示達に基き、十二月の株主総会に之を付議し、定款及び営業細則等を改正し、大正二年三月より実施する事となるべしと。

【メモ】
米価調整の為の台鮮米代用に関する記事。
米価の依然として安定を見せていない。


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    百年新報 (1912.11.29)


    多田恵一拘引さる 吉原で乱暴の為か
    「東京朝日新聞」1912/11/29

    芝浦の旅館兼料理店 月見亭に於て止宿料の請求を受け、怒って同亭の主人を殴打し、傷害せしめた為、罰金三十円に処せられた元南極探検隊書記 多田恵一(二十七)は、該裁判を不服として控訴し、昨日は東京控訴院刑事第二分 坂崎裁判長係、落合検事立会にて公判開廷の筈なりしが、都合により延期となり、恵一は裁判所構内を徘徊中、東京地方裁判所検事局 猪股検事は、突然同人を召喚し、何等か取調ぶる処ありし由なるが、恵一は其儘拘引せられ、警視庁に送られたり。聞く所によれば、去る二十三日夜十時頃、吉原江戸町一の六 文字楼前にて酔余妓夫等を騒がした為ならんといふ。

    【メモ】
    元南極探検隊書記長、多田恵一に関する記事。
    先日の裁判は不服として控訴した模様。
    ただ、その後も不祥事が絶えないようである。


    桂公暗殺者顕る
    「東京朝日新聞」1912/11/29

    二十八日午後、帝国ホテル在宿の邦人にて、桂公及び関前侍医頭を暗殺すると称し、外出せしものあり。多分発狂者なるべきも、其筋にては之が厳探中なり。

    【メモ】
    政治的「狂人」に関する記事。
    桂太郎は兎も角、関前侍医頭の暗殺が仄めかされているのは、
    彼の医療ミスによって明治天皇が死去したとの認識が広がっていた為である。


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      百年新報 (1912.11.28)


      諒闇中と年賀
      「東京朝日新聞」1912/11/28

      東京市役所にては二十七日、市長、区長の相談会を開き、来る年末年始の賀儀に就き、左の通り申合せをなしたり。

      一、年末年始の賀儀、七五三(しめ)飾り、門松等は諒闇中に付、謹慎を表する限りに於て、例年慣行の通り行ひて差支なかるべし。
      一、市役所、区役所其他他所属公庁及学校等の松飾りに就ては、中央官庁の例に準ずること。
      一、電車は喪章を付したる国旗を正月三日間掲ぐること。
      一、前記各項と雖も、其筋より令達ある時は之に遵ふこと。

      【メモ】
      翌年の年賀自粛に関する記事。
      概ね、例年通りの正月となる模様。


      東京府の樟脳製造
      「東京朝日新聞」1912/11/28

      伊豆七島は気候其他の関係上、樟樹植に最適する土地なるを認め、明治四十一年度以後、政府の補助を得て差向き八丈、大島の両島に百数十町歩の土地を選定して樟樹数十万本を植栽したるに、島民も之に倣ふて植栽するもの漸次多きを加へたれば、府にては樟脳製造の方法は勿論、枝葉採取方等を実習せしめん目的を以て、目下八丈島大賀郷村に葉製樟脳試験所を設け、同府技手 富谷房次郎氏監督の下に製造中なり。

      【メモ】
      伊豆七島における樟脳製造について。
      クスノキから取れる樟脳はセルロイドの可塑剤として日本の主要な輸出品であった。


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        百年新報 (1912.11.27)


        勃土休戦談判
        「東京朝日新聞」1912/11/27

        土耳其(トルコ)代表者一行は二十三日(土)夜、勃牙利(ブルガリヤ)軍の本営に到着したり。勃土両国全権は多分本日会見する筈。

        土耳其の決心

        土耳其は最近提出されたる巴爾幹(バルカン)諸邦の講和条件に対して、大いに変更せらるるにあらざれば、平和条約を結ばざる可しと公言せり。
        「東京朝日新聞」1912/11/27

        ダ海峡解放
        「東京朝日新聞」1912/11/27

        ダーダルネス海峡閉鎖は今や終了し、商船は再び通過しつつあり。其の入口の砲台は今や如何なる事変にも処するの準備成れり。土耳其の将帥等は海陸共に勃牙利・希臘両軍の前進を防ぎ得べしと声明せり。

        【メモ】
        バルカン情勢に関する記事、三題。
        休戦談判と海峡解放。


        木の中から酒 奇抜なる密輸業者の奸策
        「東京朝日新聞」1912/11/27

        浦塩帰客の談に依ば、此程朝鮮清津を経由せる立神丸にて、彼の地に上陸したる材木を他に運搬せんとするや、不思議にも材木の中より日本酒流れ出るに驚き、更に詳しく改めしに、五十本の材木悉く中を刳りて酒を流し込みしことを発見せり。猶義勇艦にて其他より輸入せし棕櫚竹を植込みたる四斗樽の中よりまたも酒滾れ出たるが、これは樽底に大量の酒を隠匿し、頗る大胆奇抜なる密輸入を企て、美事に失敗したるものなり。これが為にや、露国官憲は当地の日本醜窟へ一切酒類の販売を禁じ、若し酒気を帯て立出る漂客ある時は、直に該醜業者は営業を禁止せらるる事となり、爾来二三軒の禁止を命ぜられ、目下浦塩花柳界は大恐慌を来しつつあり。

        【メモ】
        ウラジオストックへの日本酒の密輸に関する記事。
        埋め込んだのが杉の材木ならば、さぞ良い香りがしたろう。


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          百年新報 (1912.11.26)


          巴爾幹と小包郵便
          「東京朝日新聞」1912/11/26

          逓信大臣は巴爾幹(バルカン)半島戦争に関し希臘(希臘)、欧羅巴土耳其及亜細亜土耳其宛小包郵便物にして、戦時禁制品と看做すべき物品を包有するものは、当分の内、仏国経由及仏船に依り郵送することを得ざる旨、万国郵便連合総理局より通知ありたる旨を公示せり。

          【メモ】
          バルカン情勢に伴う国際郵便の扱いに関する記事。
          フランス経由であれば届きはするという事か。


          海軍大尉鎮守府を焼かんとす 癲狂院を脱して
          「東京朝日新聞」1912/11/26

          二十三日午後六時頃、舞鶴駅に着せる京都下り二等室より一人の海軍大尉下車し、客待車夫に向ひ、餘部舞鶴鎮守府内 海軍水交社に行くとて、大急ぎに走らせたるが、途中餘部町の某石油店にて石油五合余を買求めてブリキ缶にい入れ、之を携へて鎮守府の西門を潜り、水交支社門前にて下車し、車代も払はず、其儘姿を隠したるより、車夫は待倦みて門衛に仔細を告げ、立去りたるが、間もなく午後九時半頃に至り、同水交支社裏手の硝子窓側に石油を注ぎ放火せし曲者あり。アワヤ火事に至らんとせしを宿直の小使が発見して急を報じ、消防に尽力したる結果、差したる事なく鎮火せしが、茶山工廠長、内田参謀長、今井海兵団長其他の人々集まりて協議の末、海軍警査の手にて捜査に力め、舞鶴憲兵分隊、新舞鶴警察署も直に非常線を張り捜索したるに、同十時頃、水交社裏手の木陰に潜み居りし一人の曲者を衛兵が発見し、引捕へたるに、前期海軍大尉の服装にて、側には石油の空缶ありしを以て、直に軍法会議にして取調べを為し、二十五日、舞鶴署の手を経て舞鶴憲兵分隊に引渡し、取調べ中なるが、放火の顛末、犯人の素性等は其筋にては秘密に付し居れり。

          探聞する所に依れば、伊予国松山生れ佐治省一(三十五)といふ海軍大尉にて、数年前舞鶴鎮守府に奉書せし事ありしが、某海軍軍医大監と親懇の間柄なりしが、今春精神病の為、予備役編入され、京都岩倉癲狂院に入院中、去十四日、脱出せし儘、行方不明となりしものにて、其実弟は海軍参謀を奉職し居れり。原因は判明せざるも、舞鶴在職中、某軍医大監に或事に関し、恨みを懐き、発狂の原因の之が為なりきと。

          【メモ】
          舞鶴鎮守府への放火未遂事件に関する記事。
          伊予国松山生まれという事は、或いは秋山真之と面識あるか。


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            百年新報 (1912.11.25)


            乃木邸の柿の木
            「東京朝日新聞」1912/11/25

            故乃木将軍庭園に高さ三尺五寸の柿の二年木あり。同邸後事の整理の任に当れる塚田大佐より、故将軍と平素懇意の間柄なる新橋の高橋駅長に贈りたるに、同駅長は大いに欣び、最う六箇年も経ば、結実すべく、其節はそを将軍墓前の供物にせんと官舎の庭に植付け、培養に注意しつつありといふ。

            【メモ】
            乃木希典邸の柿の木についての記事。
            その実は墓前に供されたのであろうか。


            菊の歴史 苗一株が二両二分
            「東京朝日新聞」1912/11/25

            日本歴史の内で最も華かな時代であった元禄年間には、菊を栽培する事も盛んであったが、此菊は元々本邦在来の鑑賞植物であるが、或は何処からか這入って来たものであるか、若し入って来たものなら何時頃何処から来たか、菊の歴史に関して、一千年の過去に遡って、理学博士 白井光太郎氏が興味ある講話をした。

            夫れは二十四日の午後、総武線の中山駅の側なる群芳園で開かれた日本園芸会総会にの席上である。今其大要を記載すると、現今菊には大中小の種類の外に尚、油菊とか浜菊などと云ふ野生の菊も沢山あるが、世人の干渉に値するものは多く栽培したものである。そして此「菊」なる言葉が我歴史の上に何時頃から現れて居るかと云ふに、桓武帝の御製に歌はれたのが創めてである。何でも支那から入ったもので、其音も漢音其儘「菊(きく)」と云ふたのである。夫れから延暦十七年にも菊の御宴があった折、此花のことを歌はれた御製もあることは、歌集国史の中に出て居る。然し、其折は野生のものか、培養したものか明かでない。是れより前、平城天皇の御宇にも、菊を藤袴と呼んで歌ふた歌が沢山あると云ふことが分かった。それで菊を鑑賞植物として人の愛づる様になったのは、桓武帝の時であったが、支那から入って来たのは夫よりもずッと以前で、仁徳帝の七十三年であったことは、和漢三才図絵にも関秘録の中にも出てある。

            降って徳川時代になると、宝永四年に摂津の狩野訪友庵は大阪で菊を作って、其種類は大菊で百種許りあったと云ふ記録が残って居る。享保元禄時代に入ると、菊の培養が益々盛んで、其種類三百以上に及んで、東山の菊花会とか、北野の会とか云って、多くの菊の会があった。其当時、菊の苗一株で二両二分もしたものがあった相だ。当時江戸でも色々な菊の会があって、市ヶ谷の何んとか云ふ人は、二百種余の実生の菊を以て居たとか、渋谷にも菊の園があったとか、菊の培養の旺んであった当時を偲ぶに足る様な記録が沢山ある云々。

            【メモ】
            菊の歴史に関する記事。
            菊の苗一株で二両二分とは非常に高価である。


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              百年新報 (1912.11.24)


              卵が安くなる 卵の食方が少い
              「東京朝日新聞」1912/11/24

              毎年鶏卵の安い時期は春から夏に掛けてで、盛夏となって一旦ぐっと高くなり、九月頃からは又順次低落するを常として居るのだが、今秋は内地品が出回り薄だった為、一般に高気配で、一貫目の卸相場は二円二三十銭と云ふ高値を持続して来たが、近頃滅切り相場が下落して、一貫目に付、三十五銭方安くなり、目下一貫目に付一円八十銭前後となったから、今後は小売値段の下落を見るであらう。

              東京の消費高
              鶏卵は上海玉と云ふ支那産が頗る多く、東京で用ふる約三分の一は是である。上海玉の輸入率は昨年中、六百二十二万三千九百七十四斤、其値段が百十三万五千一円、関税が三十六万六千百七十七円で、此内半数は神戸港に輸入され、横浜へは百九十三万六百七斤、価三十五万六十一円だけ入荷する訳で、大部分は東京で消費されて居る。故に今仮りに百五十万斤だけ東京に入るものとし、内地産と合せて此三倍だえ消費するもおとすれば、東京人の鶏卵食ひ高は四百五十万斤、価七十八万六千円となる。而も是は卸商が購買する値であるから、市民は百数十万円を鶏卵の為に支払って居るのである。序に各国人鶏卵一人一ヶ年の消費高を挙げると、米国人二百四個、英国人八十五個、仏国人七十八個、独国人七十五個、伊国人四十七個であるが、日本人は僅に十七個ださうだ。まだまだ日本人は卵の食方が足らない。

              病院の上海卵
              上海玉は一般に品質が悪いと言はれて居るが、値段が幾分安いので決して之を駆逐する事は出来ぬ。病院等では大概之を用ひてゐる。「上海玉子など喰はん」と傲語する紳士も病院で喰はされて居るのである。上海玉子と地玉子とは専門家ならば形や殻の表面を見て区別する事が出来るけれど、大抵の人には全然見付ける事が出来ぬ。唯、地玉は概して大きいから、一個四銭五厘と云ふのなら、大抵内地産のものだ。

              良否の見別け方
              卵は色の白いのが宜いとか云ふ人もあるが、そんな区別はない。日本種のは大抵赤く、西洋のは白い様だが、白いのも日本に永く置けば段々赤味を帯びて来る。又卵黄の色の濃淡も別に良否には関係ないが、運動不足、青物不足等は色の淡い原因だと云はれて居る。東京の人は淡いのを嫌ふ傾向があるが、関西の地玉子は大抵淡い。素人が卵の良否を見別るには、矢張り割らなければ駄目だ。皿に落として黄身が高く盛り上がって居て、白身が明瞭に二重に見えるのは確である。尚、真の新鮮卵とは三日以上経過せぬものを云ふのであるが、殻の表面を見るとポツポツと白いボッチがある五日目位から光沢が出るが、それは空中の酸化作用に依るのである。卵が市民の口に入る迄には大抵一箇月位経って居るが、古いのは振ると音がする。

              【メモ】
              東京の鶏卵消費に関する記事。
              卵が上海より輸入されていたり、市民の口に入るまで一ヶ月かかるなど、
              当時の鶏卵の流通に関して色々垣間見えて面白い。


              活弁の悪巫山戯
              「東京朝日新聞」1912/11/24

              来た豊島郡巣鴨村字宮中千二百八十 浅草活動写真パテー館弁士 田村藤次郎(二十五)と云ふ呑気者は、二十日夜十時頃、情婦なる神田美土代町の小娘と逢引する約束にて、同町四ノ五 西洋料理並木軒へ上り、待ど暮せど女が姿を見せざるより、自棄になってウイスキー十杯、料理七皿を平らげて爛酔し、相客の帽子を取るやら外套を冠るやら、遂には洋盃(コップ)の曲芸まで初め、始末に了ぬより、錦町署へ引かれ、説諭を頂戴中、本橋安針町に出火あり、自分の家も安針町なりとて只管に詫入り、辛うじて放還して貰ひたるが、夫より半時間位を経てまた悪巫山戯を始め、褌も着けず、素裸となりて神田美土代町三の二 板垣病院に闖入し、騒ぎ廻り、再び同署へ引致されたるが、昨朝酔が醒めると同時に極り悪く、平蜘蛛の様に詫入りて、車夫の膝掛に包まれて震へながらパテー館へ送られたり。

              【メモ】
              活動弁士の乱酔に関する記事。
              ウィスキー十杯は流石に飲みすぎであろう。


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                百年新報 (1912.11.23)


                議員の禁酒 議長交際費廃止
                「東京朝日新聞」1912/11/23

                衆議院にては二十二日、各派交渉会を開き、大岡議長より本気議会は諒闇中に属し、静粛を要するを以て、食堂に於ける飲酒を厳禁したしと諮り、異議なく之を可決し、次に議長交際費は制度整理の必要上、削減する事に同意したれば、若し各派より万国議員会議其他に議員を派遣する場合には、別途の方法を講ずる事となるべく此旨を諒とせられたしと諮り、此亦異議なく可決して散会せり。

                【メモ】
                衆議院食堂での飲酒禁止に関する記事。
                出されていた酒の種類などが気になる所。


                箆棒な役人共 鉄道官吏のパッス悪用
                「東京朝日新聞」1912/11/23

                鉄道院にては、判任官以上に対し、必要に応じてパッスを交付する規定あるも、往々乱発の弊あるは屡耳にする処なるが、昨夜八時、新橋駅発神戸急行が品川駅に着するや、パッス携帯の乗客非常に多き為、同駅の警手は不審に思ひ、厳重なる取調を為したるに、何れも鉄道院の調査部より発せしパッスにて、四十余名に及び、待合わせたる普通乗客は、為に乗車し能はざるもの少なからず、迷惑を蒙る者多く、一時混雑を極めたり。元来、鉄道院の規定としては、一急行列車に乗込ましむる同院吏員のパッス携帯者は、十名内外に限られあれば、狡猾なる吏員等は新橋駅を避けて品川駅より巧に乗車を企つる者多く、殊に昨夜は本日の大祭と明日の日曜を利用してパッスを用ひ、東海、山陰、山陽地方にまで出遊せんとせし吏員多かりし為にして、中には同院の吏員にあらずして、そのパッスを携帯せし者もありしと。

                【メモ】
                鉄道院の官吏向けパスの不正使用に関する記事。
                官吏でない者がどの様な経路でパスを入手したのであろうか。


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                  百年新報 (1912.11.22)


                  鰯の大漁
                  「東京朝日新聞」1912/11/22

                  鰯の大漁あり、既に平年の七分を漁獲し、肥料相場に影響を及ぼせり。

                  【メモ】
                  函館に於ける鰯の大漁に関する記事。
                  化学肥料は未だ多くの流通を見ない。


                  救世軍大演習
                  「東京朝日新聞」1912/11/22

                  救世軍にては二十三日(新嘗祭)午前十時、大森八景園に於て野外演習(一名フィルドデー)を行ひ、日本司令官ホッター少将夫妻の指揮にて、山室大佐夫妻、之れは輔佐して大演習を催す由。

                  【メモ】
                  救世軍の「大演習」に関する記事。
                  陸海軍の大演習が行われた所であるが、
                  こちらは何をするのか皆目見当が付かない。


                  支那人の情死 相手は日本の芸妓
                  「東京朝日新聞」1912/11/22

                  二十日午後三時、市外 道の尾駅の山中にて年若の支那人が芸妓を手拭にて絞殺し、剃刀にて自分の咽喉を突きて死に切れず、更に腹部に突立てんとする処を付近の者が見付け、警察に急報せる椿事あり。

                  青年は支那直隷省黄昌生れ、漢国俊(二十二)と云ひ、家には数万の資産あり。少年時代より日本贔屓にて、大連武備学堂教師 浮戸歩兵少佐のボーイとなり、苦学せる事もあり、終に早稲田大学に留学し、卒業の後、北京政府の通訳官となりて革命乱まで勤続して職を止め、本年五月、父の許しを受け、一千円を懐中して日本に来り、当地に滞在中、市内料理店 松亭の抱芸妓 若松(十八)と悪縁繋がり、其後、情交ますます募るにつけ、所持の金子も大抵費ひ果し、両人とも不義理の借金嵩みし為め、世を果敢(はか)なみ、二十日午前一時頃、手を携へて道の尾に行き、合意の情死を遂げたるものなるべし。漢国俊は何時も吉川光雄と名乗り、大抵の場所にては日本人になり済まし居たり。

                  【メモ】
                  長崎での情死事件に関する記事。
                  先日の「排日熱と教育」の論説と読み比べると、溜息が出る。


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                    百年新報 (1912.11.21)


                    巴爾幹休戦条件
                    「東京朝日新聞」1912/11/21

                    巴爾幹(バルカン)諸邦は休戦の条件を土耳其(トルコ)に通知したれども、土耳其は之を発表せざりき。その条件中にはアドリアノープル及びスクタリの降伏を含めり。

                    列強干渉要求
                    「東京朝日新聞」1912/11/21

                    土耳其皇帝は列強皇帝に干渉を促し、戦争を中止せしめん事を要求せりとの報あり。

                    平和曙光 全権委員任命
                    「東京朝日新聞」1912/11/21

                    勃牙利(ブルガリヤ)政府は、土耳其に通牒して曰く、同国は他の同盟諸邦と協議の後、休戦条件の打合はせ及講和条約締結を委任せる全権委員を任命せりと。

                    【メモ】
                    バルカン情勢に関する記事、三題。
                    講和条約の交渉に入ってからが「戦争」の本番である。


                    排日熱と教育
                    「東京朝日新聞」1912/11/21

                    学生の海外に留学する者、多くは其の国の長所に心酔し、帰り来るの日、其の国の事物を賛美するを以て例となす。米国に留学したる者が米国党となり、独逸に留学したる者が独逸党となり、英国又は仏国に留学したる者が英国党又は仏国党となるが如く、学生の新しき頭脳へ、最初に浸染したる者は、永く頭脳を支配し、彼等をして不知不識の間に其国の讃美者とならしむ。是れ、実に教育の力にして、啻(ただ)に其国に留学したる者のみに非ず。其時刻に在ても独逸人の教師に従へる者は、独逸を崇拝し、米国人の教師に就て学びたる者は米国人を賛美し、英国人、仏国人を教師とせる者、各英国や仏国の文物を敬慕するの傾向あるは免れざる所なり。

                    然るに、独り茲に奇怪なる一現象とも謂ふべきは、日本に留学したる支那人の学生が、却って排日主義となる事、是なり。支那に於て所謂排日熱を鼓吹する者の多数は日本に留学したる者にして、彼等は日本より支那に帰るや、忽ち日本を排斥する運動を開始したり。是れ、最近数年間に於て吾人の目撃したる所、教育上の一問題として講究すべき者に非ずや。英米独仏に留学し、若しくは英米独仏の教師に就て学びたる者は、何れも其の国の崇拝者となり、讃美者となるに、独り日本に留学したる者の多数が排日党となるは何故なりや。此問題は幾多の人に拠って考査せられたるが、其結果として週なる解釈は下れり。

                    其一に曰く、欧米人が東洋の学生を待遇したるの法は、毫も自国の学生に異ならず、丁寧懇切にして異郷の留学生をして、其徳に感ぜしむる者あり。其の東洋に来て教ふる者も亦、学生を待つに礼あり。能く之を教ふるの道を知れり。然るに、日本に於ては支那人を目して、劣等の国民となし、彼等留学生を待遇するの道に於て、欧米人が為すが如く懇切ならず、彼等をして憤懣の情を起さしむる場合多し。是れ彼等が帰国の後に排日運動を開始する所以なりと。

                    其の解釈二に曰く、欧米人の教育は進歩せる科学を教へ、其倫理は世界主義平等主義にして広く正義人道を教ふ。然るに日本人の教育は忠孝本位にして、帝国主義を教へ、一国の繁栄の為めに、他国を侵略すべきを教へ、攘夷思想を鼓吹す。此教育の中に育てられたる支那人が、帰国の後、攘夷主義となり、排日主義となるは自然の数なりと。

                    其の解釈三に曰く、凡そ教育の進むに従って、人は其国事を憂ふるに至る。日本に留学して教育を受けて、帰って支那の現状を見る時は、憤然として排日運動を起すに至るは、自然の情なり。是教育の罪と謂はんよりは、東洋目下の形勢が、支那人の教育ある者をして排日熱を起さしむる者と謂ふべしと。

                    其外種々の解釈ありと雖も、以上の三者は各々一理あるに似たり。言ふ迄もなく、支那大陸に於て排日熱の起るは、独り日本人の不幸のみならず、広く東洋の不幸なり。唇歯輔車の関係あり、同文同種の親交ある東洋人は、互に胸襟を披いて、相握手せざる可らず。此時に当りて欧米に留学したる支那人の間に、排日熱を鼓吹する者を生じ、東洋人を離間せんとする者あるは、或は止むを得ざることならんも、苟も日本に留学し、日本人の教師に就て学びたる者をして、排日運動に従事せしむるが如き事象あるは、日本の教育家の不名誉と謂はざる可らず。

                    吾人は日本の教育家が此際、特に注意し、支那人をして日本を誤解せしむる事なからしめん事を望み、又一般国民に向っても支那人の日本に来れる者を故意に侮辱するが如きことなくして、以て現存せる排日感情を融和し、尚今後、此の如き運動の起るを予防せん事を望む者なり。若夫れ或る一派が認て排日熱の一原因となせる一般教育上の方針の如きは、我邦の政治家教育家が更に講究を要する一問題なる可し。

                    【メモ】
                    来日留学生の教育に関する論説。
                    潘佩珠らによる東遊運動への対応の失敗を思う。


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