百年新報 (1913.04.30)


大凧に揚られて惨死 五丈余の空中より墜つ
「東京朝日新聞」1912/04/30

相州高座郡高間村字入谷三一〇二農 有山七太郎二男 政雄(十九)は二十八日午後四時半頃、付近の広場に於て同地名物の大凧を飛揚中、天空に吊り上げられ、五丈余の所より墜落し、脳天を打ちて即死せり。

【メモ】
大凧による死亡事故に関する記事。
現在でもこの辺りの地方では大凧揚げが盛んの模様。


外濠整理可決
「東京朝日新聞」1912/04/30

数寄屋橋より雉子橋に至る外濠東岸を埋め立てて、一万坪の地を得、外濠を整理して二十間乃至十五間幅とする案は、二十九日の東京市参事会に於て可決されたり。

【メモ】
外濠整理に関する記事。
所謂「外堀通り」に沿った数寄屋橋界隈の再開発である。


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    百年新報 (1913.04.29)


    肌に鱗ある男 魚鱗症と命名す

    二十七日終了の山口県都濃郡徴兵所の於ける壮丁中、富田村 中本治助(二十一)は背中一面に胸より腹にかけ、鱗形の斑紋あり。脊髄の通りに黒線を描けり。世に言ふ蛇男の類ならんとて、徴兵医官は魚鱗症と命名し、医学上の資料として撮影せり。

    【メモ】
    肌に鱗のある男の記事。
    所謂「魚鱗癬」と呼ばれる皮膚病の模様。


    露国下士官の割腹

    長崎滞在の露国人は本国よりの来信なりとて語りて曰く、ペテルブルク在住のザルモンドフ(三十)は一下士としてステッセル将軍と共に旅順に籠城せしものなるが、この程、自宅に於て軍刀を以て美事に腹十文字に掻き切り、自殺せり。同人は旅順開城当時より常に乃木将軍を慕ひ、其人格を崇拝して、殉死後の将軍の記事にして同国新聞紙に顕れしものは、悉く切り抜き秘蔵し、日夕愛誦し終って感極まり最期を遂げしものと判明し、欧州人が所謂「ハラキリ」なるものを初めて実行せしものにて、将軍の感化は一外国兵士迄及びしかと所説区々なりと云ふ。

    【メモ】
    ロシアの元下士官による「ハラキリ」に関する記事。
    記事には「腹十文字に掻き切り」とあるが、本当であろうか。


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      百年新報 (1913.04.28)


      支那共和国祈祷

      二十七日は支那共和国政府の希望に依り、全国並に世界各国の基督教会に於て同国の為に特に祈祷を捧げ、北京美以教会にて参議院副議長 王正廷は千余の信徒に対し、真理は最後の勝利なりと意味にて、熱心なる説教と祈祷を為したり。其他、各支那人、外人教会にても夫々祈祷を為したり。

      新政府確立の御祈祷 昨日青年会館で行ふ

      中華民国の議会、初めて開かるるに就き、同国の政府は政府人民及び議会の上に神の祝福を祈願せん為め、四月二十七日を卜して世界の基督教会に向って、特別祈祷日となさん事を依頼し来りたるを以て、吾基督教徒は江原素六、植村正久、海老名弾正、井深梶之助氏等賛助の下に同日、神田青年会館に於て祈祷式を挙げたり。

      司会 山本国之助氏、祈祷会の由来を述べ、支那青年会幹事チン氏は支那政府が各国に公認せらるる事の一日の早からん事及び、支那領地内に於て平和の続かん事、約十箇条を神に祈り、次で最近、天津より帰朝せる佐藤惣三郎氏は、略奪殺戮常に絶えざる支那に於て、財産身体居住に不安を抱ける同国民は誠に不憫の至りなり、吾人は此祈祷会に当り、啻に祈祷を以て彼等の幸福を願ふのみならず、能う可んば、身命を擲って彼等に安心立命を与へたく思ふと説て、四時散会せり。

      【メモ】
      中華民国の為の祈祷会に関する記事、二題。
      果たして効果の程や如何。


      和蘭百年祭に博覧会

      本年は和蘭(オランダ)独立後一百年に相当し、且海牙(ヘイグ)の平和宮竣成すべきを以て、国民的祝典を開催し、記念の為、全国各都市に多数の博覧会を催すべく、同国政府は多額の補助金を与へたり。博覧会開催は七月頃よりなるべく、開催地は十八都市に亙り、各種博覧会数二十五に達する由。

      【メモ】
      オランダの独立百年祭に関する記事。
      即ち、本年は二百年に当る計算となる。


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        百年新報 (1913.04.27)


        星に住む人 植物位は必ず存在し相だ
        「東京朝日新聞」1912/04/27

        星の上に人類のやうなものが住んで居るか居ぬかといふ事に就ては、世界の学者が種々なる説を立てて居るが、左に掲ぐるのは此等の諸学者の所論に基いて、本田理・文学士が昨日午前一時から東京理科大学に開会した日本天文学界総会の席上で公演した大要である。

        星に生物が居るか居ぬかを論ずる前に、先づ地球上の人類は如何にして生じたかを研究せねばならぬが、神が創造したのでもなく、流星と共に降って来たのでもなく、無生物から生物に進化したものだと云ふ説が一番有力で、多くの学者が此説に一致して居る。

        生物の存在する為には外界の事情が如何あれば宜しいかと云ふに、適当な温度、太陽の光と輻射熱、水、大気、堅まった土地、昼夜のあること等が必要である。而して以上の条件を具備して居る星は地球以外に無いかと云ふに、太陽系に属する星のうちでも火星の如きは立派に生物が存在し得るだけの条件を有して居る。

        尤も、月の如きは空気も水もないから、生物は存在しないだらうし、木星、土星、天王星、海王星等は未だ瓦斯の火の球だから、生物は居れまいが、火星だけは種々の点で生物の存在し得る条件を有って居るから、生物の居ないと云ふことは、勿論言えぬのみならず、積極的に植物位は存在して居るとは言ひ得る断案に到達する。而己ならず、太陽系以外にも、まだまだ生物の存在に適し相な多くの星ある事だから、無限際の宇宙の事であって見れば人類の様の様なものが星にも居ると云ふ方が適当だらうと思ふ云々。

        【メモ】
        宇宙人に関する公演に関する記事。
        百年後の現在、未だそれは発見出来ていない。


        当世舌切すずめ 口外に垂れる事五寸余
        「東京朝日新聞」1912/04/27

        千葉県君津郡岩根村高柳に中村なを(十五)と云へる娘あり。生来舌長くして常に口外より五寸余垂れ居り。此の年頃になれど、人目羞しくて、永年一間に閉ぢ籠り居たるが、遂に堪へかねて、二十五日午前十時、県立千葉病院に於て筒井博士の手術を受けて、程よく切って貰ひ、之れで漸く安心もし、口も自由に利けますと喜び勇んで帰りたりと。同院職員の談に依れば、なをの舌の如きは世界に稀なるものならんと。

        【メモ】
        舌の長い娘に関する記事。
        口外に五寸とは流石に長すぎる。


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          百年新報 (1913.04.26)


          肩怒らして陳述 騒擾事件続行公判
          「東京朝日新聞」1912/04/26

          騒擾事件の公判は引続き昨日午前から東京控訴院の大法廷で開かれた。何がさて被告ばかり百三十余名に達するのだから、其の弁護人や親戚縁者で法廷内は立錐の地もなく、田山裁判長は先づ、按摩の荒井源蔵(六十)から審問を開始した。分別盛りの通り越した源蔵は、自分より若い裁判長の手前も恥かし気に「皆が騒いでゐたので、ツイ其中へ引入られましたが、併し万歳を叫んだり、石を投げたりは致しませぬ」と頭をさする。次に大西春吉といふ、源蔵よりも更に上越す六十五歳の爺さん「官僚さんの政治になると、米が高くなり、若し政友会内閣となれば安くなると思って、議事堂前へ参りました」と、是亦其他を否認する。

          夫から幾人かを尋問して一旦休憩して再び開廷、五六名を調べた後、明治学院体育教師であった後藤槌雄を審問すると、同人曰く「私はアノ日、都新聞の焼打を見てから、更に群衆に紛れて国民新聞社前に行った処、同社の中から突然、水をブッ掛けられ、狼狽して逃げんとする刹那、同社の社員が抜刀其他の兇器を振って追かけて来たので、最早是までと踏み止まって対抗して、其兇器を奪ったので、若アノ時私が居なかったら、其刀で斬れた人が二三十名はあったでせう」と肩怒らして物語る。裁判長は進んで尚も十数名の訊問を終へ、午後五時半、此日の審問を終わったが、今日は残りの四十名を取調べるさうだ。

          【メモ】
          「大正政変」に伴う騒擾事件の公判に関する記事。
          これを見る限り、高邁な政治意識によって立ち上がった訳ではなさそうである。


          綿糸と北支那
          「東京朝日新聞」1912/04/26

          綿糸市場は内地は農繁期に赴き、支那方面は銀塊の暴落に次で政変の懸念あれば、久しく萎靡として振はざりしも、近来内地向は兎も角、支那市場は銀塊の漸騰と共に政変見越しの薄らげる為め、先約定等も大部殷賑を呈し来れる模様あり。但し、此殷賑も現在の処は単に北支那方面のみにて、南部一帯は民国議会の前途を案じて何となく不引立の観あれば、支那全体の活躍を見るは尚、相応の時日を要すべしと認めらる。因に等しく不引立なる内地市場にありても、瓦斯糸の如き在荷潤沢のものこそ商状一層沈静なれど、然らざるものは現物払底の為に気配だけは頗る強硬なり。

          【メモ】
          綿糸市場の動向に関する記事。
          「瓦斯糸」とはガスまたは電熱によって細かい毛羽を焼いた糸の事であるらしい。


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            百年新報 (1913.04.25)


            宋暗殺者変死す
            「東京朝日新聞」1912/04/25

            目下、上海市の監獄に監禁中なる武士英は、本日午後、突然死亡せり。原因は不明なるも、多分何者か宋教仁暗殺の証拠を湮滅する目的にて暗殺せしものらしく、目下解剖中なり。国民党は之を以て、程徳全の責任なりとし、詰問の電報を発せんとしつつあり。應桂慶は猶健全なるも、何時殺害せらるるや測られず。猶、武士英は公平なる裁判を為す条件にて、仏国官憲より支那官憲に引渡せしものなれば、武士英の死亡は仏国官憲との間にも六ヶ敷問題を惹起すべき形勢なり。

            毒殺と決定
            「東京朝日新聞」1912/04/25

            武士英の死体は独逸及び英国の医師に依りて解剖せし結果、確に毒殺なる旨、判明せり。

            【メモ】
            宋教仁暗殺犯に関する記事、二題。
            死人に口なし。


            婦人取締案通過
            「東京朝日新聞」1912/04/25

            英国内務卿の提出せる婦人参政権論者の処分に関し、従来よりも一層強大なる権力を内務卿に付与するの法案は下院第三議会を通過せり。

            【メモ】
            英国に於ける婦人参政権運動に関する記事。
            度重なるテロ行為への対策。



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              百年新報 (1913.04.24)


              近衛公爵家の慶事
              「東京朝日新聞」1912/04/24

              京都帝国大学法科に在学中の公爵 近衛文麿氏(二十五)は此程、嘉納治五郎氏夫妻の媒酌にて、大分県旧佐伯藩主 毛利高範子の二女 千代子(十八)と婚約整ひたりといふ。千代子は本年、学習院を優等にて卒業せる才媛なり。又、文麿公令妹 武子(十七)は渡邊宮相夫妻及、津田梅子女史の媒酌にて、大山元帥令息なる栢氏(二十五)と婚約整ひたる由なるが、栢氏は歩兵少尉にして、目下近衛歩兵連隊付なり。

              【メモ】
              近衛文麿の婚約に関する記事。
              二人はやがて時代の波に翻弄される事になる。


              羅馬法の翻訳 帝国学士会院の事業
              「東京朝日新聞」1912/04/24

              世界法律の淵源たる羅馬法は原文羅甸(ラテン)語を以て記述され、其文章と云ひ、意味と云ひ、今人の容易に理解し能はざるものあり。欧西の文物、我邦に輸入せし以来、凡百の法律書、政治書、経済書、宗教書、教育書、文学書、天文、地理、歴史に関する大小の書籍は大抵翻訳されしも、独り羅馬法に至りては原文の難解なる、意味の高雅なる、常人の翻訳を難ずる所なりしに、今回、帝国学士会院にては、此の年来の欠陥を補はんとて、諸博士、諸大家中より翻訳者を選ばんとしたるも、今日迄、適当の人を見出す能はざりしが、先般、愈々衆議一決し、此大業を枢密顧問官 文学博士 末松謙澄子に懇嘱する事と為りたり。

              依て、子爵は先般来、羅甸文の原著を根本として、数百冊の内外羅、英、仏、独、和文書を精査対照しつつ、昼夜、浩瀚の翻訳に着手しつつあるが、今後数月の後にあらざれば成功せず。終業後は先づ畏き辺りの乙夜の覧に供し奉り、大学は勿論、各専門学校の教科書とし、個人の研究書、参考書と為して大に斯道に資すべしと云ふ。

              【メモ】
              末松謙澄によるローマ法翻訳に関する記事。
              「源氏物語」の英訳を行った事でも知られる人物である。


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                続・江戸の話 三十二


                 人々が集まり生活すると、火災は避けがたい問題となってくる。特に住居が密集する都市においては、類焼によって大事となることがある。江戸もまた、屡々大火に見舞われた。都市全体として見た場合、火災の発生は不可避である。当然と言うべきか、火災から家財を守るための工夫が行われた。今回取り上げる「蔵」も、その一つである。
                「江戸大河以東の本所深川の地には市民諸賈物も蓄蔵する土蔵甚だ多し是大河以西は民屋輻湊して塁地少く火災屡々にして土蔵と雖ども危きに近く特に地賈貴きを以て河西居住の市民自宅に土蔵ある者京坂より甚だ多しと雖ども亦特に河東の地に一宇数戸の長倉等を造りて米穀以下諸賈物を蓄ふ備へとす或は自物を納れて常に売之或は時価の高下を計て売之或は他の賈物を質して金を貸す者等或は金を貸ず月収を以て他の賈物を蓄へしむ等に備ふ時価俗に相場と云月収を蔵敷と云」
                とある。土蔵は、ある程度は火に耐えるので、江戸では京都大阪より甚だ多く造られたが、それでも火災繁多な江戸では万全とは思えない。そこで、人が少なく、土地も安い隅田川の西側にある本所深川の辺に、別に土蔵を造り、ここに物を保管した。この蔵には、米穀・家財の保管を勿論、品物を蓄えて値段の高い時を見計らったり、或いは質草を保全した。あるいは、金をとって他人の持ち物を保管することもあったという。
                 本所深川周辺に土蔵が造られたのは、他にも理由がある。
                「河東の地は縦横支流多く船を用て諸物を出納するに利あり又地価賎く塁地多く家居少く倉壁厚からずと雖ども火災の難少きの利あり」
                とあり、水運を利用して物品の輸送が容易であったこと、人居まばらで大火となりにくく、土蔵の壁を厚く造らなくとも済んだこと、等が挙げられている。
                「故に如此近年益多し此ごとき土蔵は一宇五六戸或は十余ありて数宇を並べ造り其辺に家居一戸を造りて蔵法師を住しめ年給を与へて品物出納及び貸蔵の進退月収の事皆掌之意家主と同く或は職を譲るに金を以し蔵法師の株と云然りと雖ども家主は官に公にし蔵法師は私職なるが故に蔵所にも必家主あり或は別に置之或は蔵法師家主を兼る」
                とあり、隅田川の東には、土蔵が多く造られることとなった。とはいえ、これら土蔵は物品を保管するために別途造られたものであるから、所有者がその場に居住しているわけではない。そこで、この地の土蔵を管理する者を雇い入れ、土蔵近くに居住させることがある。これが「蔵法師」である。「法師」とあるが、俗人であって僧侶ではない。守貞も「蔵法師と云ことは足利幕府の時法師を以て倉廩の出納を掌らしむ故に今に江戸民間年給を以て倉を掌る者俗人也と雖此名あり又今の官庫官倉は奉行人掌之也」と記している。この蔵法師、年給が支給されたから、蔵法師の職が「株」として他人に売り渡されることもあったという。
                 このように隅田川の東という遠地に土蔵を設けるだけでなく、身近にも土蔵とは別の防火施設を設けることもあった。地下に穴を掘り火を避けるのが「あなぐら」である。これを作成する職業を窖工・穴蔵屋と言う。
                「古は窖を用ひず明暦二年江戸本町二丁目和泉屋九左衛門と云呉服賈にて始て製之世人火災に難あらんことを疑惑し他家未だ不用之同三年大火あり和泉屋の家宅は類焼すれども窖は更に恙なし茲に至て世人始て其理あることを知り世上専ら造之土蔵ある人も金銭の類は必らず窖に蔵む」
                とあるから、広まったのは明暦の大火以降であるらしい。土蔵を有する者でもあなぐらを別に設け、金銭は土蔵ではなくあなぐらに保管するという。
                「又少戸の者は土蔵よりも費の易きを以て造之火時雑物を納むの備とす極粗製には無底もあり号てやつま穴蔵と云粗製ともに水洩りて平日の用には良ならず京坂には蓄金の用のみに造之て石を以てす水洩ず或は解船材を以てす別に窖工無之江戸は木製也」
                とあり、建造の費用は土蔵よりもあなぐらの方が安価であったらしい。「火時雑物を納む」というから、火事に遭って初めて物を運び込み、「金銭」以外は常には保管しなかったようで。粗製と否とを問わず水洩れがあり、「平日の用には良ならず」だからであろう。江戸では、あなぐらは木製というから、土を掘った後に木で床壁を作成したらしい。これに対して京都大阪では金銭を保管するためだけに用い、専業の窖工はおらず、水洩れの無い石造、あるいは解き船材を用いてあなぐらを建造したという。水洩れが無いのであれば常用しても良さそうなものであるが、江戸と比して火災の規模が小さいために、その他の物品の保管は土蔵で事足りたのであろう。

                 火災の多い江戸においては、財産を持てば持ったで、それを守るための出費も強いられた。しかし、こうした火災対策、はなから殆ど家財の無い生活をしている人々には無縁である。彼等は火災に遇えば、家財を一纏めにして火から逃れるだけである。困窮するのは困りものだが、財物に縛られない身軽さというのも、益のないことではないようである。



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                  百年新報 (1913.04.23)


                  昨夜の英国協会 日英新大使送迎
                  「東京朝日新聞」1912/04/23

                  英国協会は昨夜、其年次大晩餐会を築地精養軒に開けり。会する者、約二百名、中に主賓の英国大使グリーン夫妻、二令嬢、新駐英大使 井上勝之助氏夫妻を始め、徳川公爵、加藤男爵、伊集院大将、宮原男爵、林大使、若槻前蔵相、秋元子爵、財部少将、桜井博士、高橋男爵、菊池男爵、川村伯爵等を数へたり。

                  八時、徳川公司会の下に開宴、宴終らんとするに当りて、グリーン大使は天皇陛下の為に、徳川公爵は英国皇帝の為に型の如き乾杯の辞あり。次で加藤男爵は英国のグレー外相がグリーン大使の名を語らずして、近く英国に於ける最適任の大使を日本に送るべき由語れると、井上大使が独逸駐箚中、内外に令聞ありし事など述べて、両大使の為に祝杯を挙げ、グリーン氏は之に答ふるの次手、日英同盟が日本の為、英国の為、及世界の為、極めて重要なる次第を語り、自分が大使在任中は、両国の関係を親善ならしめんが為に其全力を致すべき由を盟ひ、最後に英国の外交政策は唯二語に尽くとて「同盟国に対しては忠実に、敵邦に対しては慈仁たるべき」と説きて、大喝采を博したり。

                  次で、井上大使の英国協会に対する祝辞あり。之に答へたるランボールド大使館参事官の謝辞中には、日英両国の風俗の相違などに語り及びて、盛に一同を笑はせたり。最後に、菊池男爵が当夜の司会者たりし徳川公爵に対する謝辞あり。公爵の之に対する謝辞ありて、之にて食堂を引上げ、別室にて閑談、時余の後、散会したり。当夜はグリーン、井上両大使の送迎を兼ねたる事とて、何時もながらの盛会を極めたり。

                  【メモ】
                  英国協会に於ける歓送迎会に関する記事。
                  「同盟国に対しては忠実に、敵邦に対しては慈仁たるべき」とは蓋し名言である。


                  書院の屋根から小判 を見付けたが基で監獄行
                  「東京朝日新聞」1912/04/23

                  三河国碧海郡刈谷町大字南中屋敷 神谷権右衛門二男 源次郎(二十七)は去四十三年八月、同町曹洞宗榜厳寺書院の屋根葺替の人夫に雇はれ、中書院の天井より慶弔小判五十九枚、二分金二個、豆銀五個を発見せしを、密かに自宅に持ち帰り、屋根裏に隠し置きしが、其後、放蕩の結果、借金の返済に窮し、去る六日、同町漆器商 小栗長松型へ小判一枚を持ち行き、売却せんとせしより発覚し、二十一日拘引さる。

                  【メモ】
                  小判を得て人生を損なった男の記事。
                  「芝浜」の様にはいかなかった模様。



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                    百年新報 (1913.04.22)


                    宋暗殺の談話
                    「東京朝日新聞」1912/04/22

                    宮崎滔天氏は上海より帰朝して曰く、宋の暗殺は袁総督の旨を受けたる内務総長秘書官と應桂馨の間に数十回通信せし秘密暗号電報を應の宅より発見して、北京よりの命令なる事判明せりとて、其電報と文書の写を携帯し帰れるが、秘密洩れん事を恐れ、暗号を三回変更せし事、暗殺決行の事、袁大総統是れを嘉賞し、早く決行せよと催促せし事、数回、應より運動費と報酬三十万円を請求し、内務総長等も承知などの意味あり。最後の三月二十一日は目的を達し、我れに一負傷なしと北京に送りし電報なり。宮崎氏は之れを手にしつつ、南北の隔離、避くべからず、事件は議会の大問題とし、北京の死活を制せん。孫逸仙等は当分、上海に留まり、前後を策すべしと語れり。

                    【メモ】
                    宋教仁暗殺の背景に関する記事。
                    宮崎滔天の報告の信憑性や如何。


                    東郷大将元帥陞格
                    「東京朝日新聞」1912/04/22

                    天皇陛下には二十一日午前十時、東郷海軍大将を宮中御座所に召され、山本首相、鷹司侍従長侍立の下に左の御沙汰を賜ひたり。

                     従二位大勲位功一級 伯爵 東郷平八郎

                    元帥府に列せられ、特に元帥の称号を賜ふ。

                    【メモ】
                    東郷平八郎の元帥陞格に関する記事。
                    山本権兵衛の肝煎によるものか。


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