続・江戸の話 五十八


 『守貞謾稿』家宅篇を読み続けよう。

 まずは下見。家の外側の壁を板張したものである。
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「下見は図の如く板はかさね掛れども押ぶちに切目なく唯板を細く割て押之而已」
とあり、各板の一部が重なり合うように取り付ける。これを抑える縦の材木・竹などが「押ぶち(押縁)」である。単に「下見」と呼ばれる物では、押縁には切目はない。これとは別に、「さヽらこ」と呼ばれるものもある。
2「語源等に切懸と云物歟おしふちをさヽらの如く甲図の形にきりかくる也下見もさヽらこも下より上へ板をかさねかけて乙図の如くに打て押ぶちをも其に准してきりかけたるを云」
とあり、押縁には並べる板の形状に合わせた切目がある。ささらこを用いた下見を、ささらこ下見という。押渕と板は単なる下見より密着するのは、利点であろう。

 家の外には、壁以外の物を作ることがある。守貞があげているのは矢来、垣根の類である。「古の矢ふせきにてもがり也」、つまり矢を防ぐための虎落、即ち柵であると記しているのは、「矢来」の語源を考察したものであろう。矢来の一つとして、「朝鮮矢来」なるものをあげているが、「宝暦中朝鮮人来聘に始めれ製之故に名くと云へり」とあるので、別に朝鮮から伝わったものではなく、朝鮮使節が来た宝暦年間以降に流布したことに由来するようである。

 さて、下見にしても矢来にしても、板や竹を並べたものであり、壁とは異なり隙間がある。完全に閉ざしてしまっては風も通らない。人が生活する建物においては、装飾性は当然問われるにしても、どの程度・どの様に開閉するかは、重要な点である。開放する必要がなければ壁で良く、雨の際にだけ閉ざせば良いのであれば雨戸で良い。人を通すことは無いが、風光を取り入れたいのであれば、壁でも戸でもなく、相応の機能を果たす物が選ばれる。格子連子は、その一例である。
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「格子と云は竪横とも同寸に組たるを格子と云今俗は是を狐格子と云又竪多く横少く大略竪寸横尺に子を用ひたるを今俗は是を格子と云」
とある。左図が「格子」、守貞の頃の俗称では「狐格子」。右図は「連子」。同じく俗称では「格子」である。いずれの「格子」も木・竹などを縦横に組み合わせて作られる。
 格子にも様々なものがあり、「京格子」は「連子の竪子特に細かく多きを云歟又竪子に貫を通さず貫に竪子を釘打にしたるを云歟」という。「歟」とあるように守貞も断定してはいないが、連子状で、連子の通例より竪子が細く数が多いものであったようである。「江市屋格子」も連子状で、竪子が繁く透間があまりない。「問屋格子」は「竪子大略二寸四五分角材を以てし竪子の間も竪子と同寸にす是亦連子の太き也」とあるから、太い材木で作り、材木と隙間は同じ幅である。なお、「大賈専用之蓋賈物に因て必とせず」とあるので、「問屋」でも必ず使うものではなかったようである。
 守貞が今ひとつ挙げているのが、「丸太格子」である。
「杉丸太皮はたヽのまヽを二つ割にして竪子に用ふ皮膚を表とする也太さ及其制問屋格子に似て夢想と云て竪子の幅に板を格子としてこれを裡とし昼は丸太に重之て開き夜は竪子の間を塞ぐ此格子は酒醤の賈及鍛冶の家専用之」
とあり、名前の通り丸太を用いて作られた。丸太は二つ割りにし、割った平面を内側に、曲面を外側にする。丸太格子を用いる際には、同じ幅の板で作った別の格子を作成しておき、昼は丸太格子と重ねておき、夜になると丸太格子の隙間の部分を板格子で塞いだようである。なお「酒醤の賈及鍛冶の家専用之」とあるが、その理由は詳らかではない。



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    百年新報 (1914.04.20)


    南京の植林事業 貧民救助の一方法
    「東京朝日新聞」1914/04/20

    昨年革命戦後、貧民救助の目的にて創立されたる支那殖民協会の南京支部は、此程ベーリー教授指導の下に設立され、支那官紳の後援に依り二万元の資金を集め、革命以来混乱せる南京の貧民を使用し、紫金山一帯の植林に着手せり。主として鉄道枕木等を得る計画なるが、猶米国綿の移植を試みる筈。

    【メモ】
    南京に於ける植林事業に関する記事。
    記事内容だけを見れば頗る良い話のように見える。


    稀に見る良教員 深川明治小学校の訓導
    「東京朝日新聞」1914/04/20

    深川区万年町 明治小学校訓導 藤井文六氏は赴任以来、児童の教養に従事する事、前後六ヵ年、常に丁寧親切の評ありたるが、殊に本年三月卒業せる児童三十九名は東西も分らぬ一年生より、同氏の薫陶を受けたるものにして、保護者一同、当代稀に見る良教員として推奨置かず、今回、同区西平野町一 鹿取政治郎氏初め、榎本儀兵衛、松本政吉氏等、十名発起となり、藤井氏の指導を受けし児童の保護者より賛同を得て、金員を募集し、一通の感謝状を添ふるに、銀時計及び公債権を贈呈したるが、藤井氏は此好意に対し、児童一同に三省堂編纂の和漢文時点を夫々送りたりと云ふ。高給を追うて転々する教員が多きが中に、実に得易からざる良教員と云ふべし。

    【メモ】
    深川の一教員に関する記事。
    具体的な指導内容やその後については不明である。



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      百年新報 (1914.04.19)


      参謀次長更迭
      「東京朝日新聞」1914/04/19

      朝鮮駐箚軍憲兵隊司令官 中将 明石元次郎
      補参謀次長

      朝鮮駐箚軍参謀長 少将 立花小一郎
      補朝鮮駐箚軍憲兵司令官

      歩兵第三十六旅団長 少将 古海厳潮
      補朝鮮駐箚軍参謀長

      明石新次長談 寝耳に水の命令
      「東京朝日新聞」1914/04/19

      参謀次長に任ぜられたる明石中将は往訪の記者に対して曰く、只今人事局より電命に接したる所なるが、何等内交渉もなく命令に接したる次第なり。憲兵司令官の後任者たる立花少将も参謀長会議に列すべく、上京の途中なれば、定めて寝耳に水の感あるべし。後任者との事務引継は特別の命令なき限り、当地にて行ふべきものなれば、立花少将は直に引返し来るべし。

      【メモ】
      明石元次郎の参謀次長就任に関する記事、二題。
      当人にとっても予想外の人事であった模様。


      護境軍禁酒
      「東京朝日新聞」1914/04/19

      露国護境軍団長は全国護境軍に対し、最も厳重なる禁酒命令を発し、哈爾賓に於ても其命に接せり。此命令は頗る極端にして、将校集会所宴会にまで酒の使用を禁じ、観兵式にては祝盃を挙ぐるを廃したり。下士以下に対しては一層厳にして、一度現行を発見されたる者は下士に昇級せしめずと。

      【メモ】
      ロシア軍国境守備隊における禁酒命令に関する記事。
      不満が高まるリスク以上に酒の害が酷かったのであろうか。


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        百年新報 (1914.04.18)


        両大将待命
        「東京朝日新聞」1914/04/18

        海軍大将 山本権兵衛伯並に同斎藤実男は十七日、待命を仰せ付られたり。

        【メモ】
        山本権兵衛・斎藤実への人事に関する記事。
        シーメンス事件の責任を取る形か。


        吉原の独心中
        「東京朝日新聞」1914/04/18

        昨夜十一時三十分、浅草区新吉原角町三五 貸座敷 玉河内楼事 池野又雄方二階 四畳半の座敷に於て、同夜九時登楼したる下谷区中御徒町二の五五 安良岡倉二方同居 岡勝(二十三)は敵娼 錦事 桑原ぶん(二十三)の不在中、硫酸を服用して自殺を企てたるも、生命に別状なし。原因は商業失敗の為め。

        【メモ】 
        吉原での自殺未遂に関する記事。
        これを「心中」と呼んで良いものだろうか。





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          百年新報 (1914.04.17)


          百年新報 (1914.04.17)

          新内閣員顔合
          「東京朝日新聞」1914/04/17

          十六日の親任式後、大隈総理大臣以下各大臣は宮中を退出し、午前十一時三十分より内閣官房に参集の上、初顔合わせをなし、正午午餐の

          卓を共にし、午後一時過ぎに至って散会したり。

          新内閣議定日
          「東京朝日新聞」1914/04/17

          大隈新内閣は山本内閣当時の如く、毎週火曜日及び金曜日を以て閣議の定日と定め、重に永田町の首相官邸に於て開会する事に決定したり。

          【メモ】
          大隈内閣に関する記事、二題。
          親任式を終え、漸く発足の運びである。


          比叡公試運転 引続き実弾射撃
          「東京朝日新聞」1914/04/17

          去る十三日、呉港より寄航せる軍艦「比叡」は十八日早朝出航し、館山沖に於て三日間、第一回の公試運転を行ひ、夫より大島沖に於て実

          弾射撃を挙行する筈。

          【メモ】
          戦艦「金剛」に関する記事。
          予定通り公試が行われる模様。



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            百年新報 (1914.04.16)


            大隈内閣成立 親任式は今日
            「東京朝日新聞」1914/04/16

            隈伯閣員奏上
            大隈伯は十五日午後一時十八分、自動車を駆って乾門を入り、北御車寄より参内。表御座所に於て拝謁仰せ付けられ、後継内閣の人選を奏上し、同二次十五分、退出したり。

            閣員の確定
            大隈内閣は愈、左の如き八鍬rを以て決定。別項の如く奏上を経たれば、多分本日午前を以て親任式挙行さるべし。

            総理  兼内務 大隈 重信 伯
            外務      加藤 高明 男
            大蔵      若槻礼次郎 氏
            陸軍  中将  岡 市之助 氏
            海軍  中将  八代 六郎 氏
            文部      一木喜徳郎 氏
            司法      尾崎 行雄 氏
            逓信      武富 時敏 氏
            農商務     大浦 兼武 氏

            【メモ】
            大隈内閣の組閣任官する記事。
            親任式を経て正式に成立となる。


            是でも政党内閣 政友某大臣談
            「東京朝日新聞」1914/04/16

            本日依願免本館の辞令を頂戴する某大臣、大隈内閣役割の号外を鼻眼鏡越しに眺めつつ語りて曰く、ハハア、愈大隈内閣も出来ますかな。世間では我等が政権に噛付いて放さぬ様に言ふが、大違ひだよ。モウ此で政権に有りつけぬと思へば未練もあるか知れぬが、何時でも取れるものとなれば、左程未練の残るものでもない。蛇の生殺は困るのだから、一日も早くお暇を頂戴して暫らく湯治にでも行き、夫れから地方行脚にでも出掛け様と云ふ訳さ。

            大隈内閣が一日も早く出来ればよいとこそ思へ、邪魔物ではない。只此の顔触れに依ると、加藤、大浦、若槻の桂内閣の役割其儘のものを始めとして、一木等官僚系のもの許りで、党人としては只僅かに尾崎君一人(或いは武富君と二人)に過ぎぬが、之を我慢する同志会の旧国民党諸君の態度と此顔触れに構はず飛込んだ尾崎君の勇気はつくづく感嘆せざるを得ない。之で世人が承知するかどうか。之をしも世人が歓迎する様なれば、成程輿論と云ふものは与し易いものさね。

            【メモ】
            政友会系大臣の所見に関する記事。
            原敬か大岡育造の筋が有力だが、山本達雄の可能性もある。



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              百年新報 (1914.04.15)


              日英同盟と豪州
              「東京朝日新聞」1914/04/15

              「モオニング・ポースト」のシドニー電報に依れば、豪州国防長官ミレン氏は日英同盟に言及して曰く、英国海軍卿チャーチル氏が確信を以て日英同盟の継続を説き得るは、我等豪州人の喜ぶ所なり。我等は日本との協商が無権に継続せんことを中心より希望す。然れども、該同盟を以て既定海軍計画を放棄する理由とするに同意すること困難なり。濠太剌利(オーストラリア)は常に自ら保護し、又南洋に於ける英帝国の利益保護に援助するに得るの地位にあらん事を熱望すと。

              【メモ】
              オーストラリア国防長官の談話に関する記事。
              日英同盟に依存せず、帝国の藩屏たらんと。


              印度土人暴行 英軍人三名殺害
              「東京朝日新聞」1914/04/15

              一名の帰順土人、俄に狂ひ始め、中尉一名、兵士二名を殺害し、将校二名に重傷を負はしめたるが、自己も銃殺されたり。印度国境に於て狂気的暴行を見たるは今回を始めとするにあらず。土人等が回教僧に教唆され、英国将校殺害の目的を以て地方軍隊に入れる例は是迄熟知されたる所なり。

              【メモ】
              インドに於ける英国軍人殺害事件に関する記事。
              イスラム聖職者の教唆によるものとの見方。



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                百年新報 (1914.04.14)


                大命降下 大隈伯参内
                「東京朝日新聞」1914/04/14

                大隈伯は十三日午前九時五十五分、令嗣信常氏同伴にて乾門より参内、先づ伏見宮殿下に賜謁、鷹司侍従長に面会の後、同十時、天皇陛下に拝謁仰付けられ、伏見宮殿下及び侍従長参列の上、内閣組織の大命を下し給ひ、大隈伯は謹みて御請をなし、閣員の詮衡を終る迄、暫時の御猶予を仰ぎ奉りて午前を拝辞し、更に内大臣府に於て伏見宮殿下並に鷹司侍従長と会談したる後、宮城を退出せり。

                大隈内閣と株式
                「東京朝日新聞」1914/04/14

                大隈伯の出馬説にて沈鬱の裡にも何となく穏健の歩調を支持しつつありし株式界は十三日、愈大隈伯爵へ大命降下せりとの切を伝へてより人気のバロメートルたる宝田ヂキ、一躍三円方の上放れを演じたれば、東株新旧の四五円高を始めに、郵船株の如きは一気に三円方暴騰して他の諸株の一斉高を喚ぶ。後場は流石に利喰の続出にて東新の如きは幾分か小緩みたるも、而も気配頗る強健なれば、所謂大隈相場は之より徐々に現るべしと観測せらる。

                【メモ】
                大隈重信への大命降下に関する記事、二題。
                早速株式相場が反応している。


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                  百年新報 (1914.04.13)


                  大隈伯引受く 本日参内大命を拝受せん
                  「東京朝日新聞」1914/04/13

                  隈伯決起確答
                  十二日の井上邸に於ける大隈伯並に山県、井上、松方、大山四元老の会合は午前より午後に渉る六時間の長評議を尽したるが、会合の目的は此際両者の意見を遺憾なく披瀝して、時局の収集を図るにありしを以て、談話は過去に於る諸元老努力の次第より現在、将来に於ける政局の推移に及び、両者共極めて打解けて意見の交換を行ひたるに、大体に於て其意見を同じうしたるを以て、四元老共、口を揃へて大隈伯の決起を促し、過日の元老会議に於ては大隈伯推挙に就て余り気乗せざりし松方候も、此日は頻に大隈伯の決心を乞ひ、平生沈黙一方なる大山公迄、今日の時局を収拾するもの大隈伯を措いて外に人なしとて切りに其起立を促したるを以て、固より大隈伯も胸中既に決したる所ありたれば、愈諸元老の勧告を容れて断然、後継内閣組織の任に膺るべき旨を確答したり。

                  両者の応対
                  当日の会合は嘗て四元老と同一の地位に在りて同じく国事を担ひたる大隈伯が当時に復りて国務を議するの趣ありて、互の応対は四角張りたる所なく、腹蔵なく其意中を尽したれば、今後の時局収拾策に就ても互に希望なり陳述なり行はれたるも、諸元老の意向は大隈伯の方針に対し、何等注文を付くる等のことなく、一意唯時局の円満なる進行を欲するに在りたれば、刻下の問題たる陸海軍問題、財政、外交其他の諸条件に就て何等纏まりたる議定様のものは無かりしが如く、是等は無論、大隈伯の専行独断すべき問題として残されたるが如し。

                  本日大命降下
                  大隈伯の決起確答の結果、山県公は直に伏見内大臣宮邸に伺候し、尚、同会議の成行を言上したるを以て、即夜、宮殿下より大隈伯に向け、今十三日参内すべき旨の御手紙あり。愈、大隈伯は本日内閣組織の大命を拝受すべし。

                  大隈伯の得意 明日を待て
                  「東京朝日新聞」1914/04/13

                  十二日の大隈伯邸は伯が早朝来外出せる為、訪問客寥々たりしが、伯が加藤男との会談を終へ、七時半帰邸するや、是より先き元老会議退散後、伯の行方不明なりとて、今か今かと其消息を待ち構へ居たる新聞記者の一段は、素破こそと動揺き立ちしが、伯は徐に応接室に歩を運び来り、記者連を顧みて破顔一笑、「今日も一向諸君に報告することは無い、世の中には鰻の香ひを嗅いだ丈で涎を垂らす人あるが、吾輩は余り欲しくも無い。併し皿を眺めて居る間に喰気が出ぬでもない」など戯談を述べ、終りに「今日は何も無いが、明日は一つ諸君を賑す報告をしよう」と得意気に語り、軽く会釈して居室に退き行きたり。

                  【メモ】
                  大隈重信への首相奏薦に関する記事、二題。
                  加藤高明との会談の内容が気になる。


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                    百年新報 (1914.04.12)


                    隈伯本日決答 大命直に下らん
                    「東京朝日新聞」1914/04/12

                    十日夜、大隈伯が井上侯を訪問し、候の懇請黙し難く、熟慮の上、十一日確答すべき旨を約したる事、別項の如くなるが、伯は同夜皇太后陛下の還啓を新橋に奉迎し、引続き十一日は早朝来、頻々たる訪客に応接して甚だしく疲労を覚えたる為め、急に約束を変更し、十二日朝、内田山なる井上候邸に四元老と会見、熟慮の結果を返答することとせるが、此会見に於て伯は元老の推薦に対し、無論承引の旨を明言すべく、伯にして愈応諾せば、元老は直に参内、其旨を言上し、廃朝中なりとも或は直に大命降下の運びに到るべしと。

                    渋沢中野両氏反対 大隈伯を諫止す
                    「東京朝日新聞」1914/04/12

                    大隈伯は内閣組織大命拝受に就て、永年別懇の間柄なる実業界の元老株、渋沢男、中野武営氏の来邸を求め、其意見を叩きたるより、両氏は十一日午前、大隈邸を訪問し、腹蔵なく其意見を開陳したり。

                    其要旨は此際伯爵の出馬を思ひ止まらしめんとするに在りて、其理由は維新の元勲たる伯の現在の地位として国家に奉公すべき道は敢て政治上のみに限らず、政治以外に為す可き数多の事業あり。若し隈伯にして多年、政治上の行掛り等より、騎虎の勢ひ止む可らずとならば、格別なるも、伯爵は現に政治と直接の関係を絶ち、今や殆ど政治圏外に悠遊せるの観あるに、此際再び此扮擾裏に踏込まんとするは不得策なり。

                    且、社会上の名誉勢望より云ふも、内閣総理大臣なるものが決して現在の伯に取りて別に光栄を増すべしとも思へず。故に伯の如きは何等掣肘を受けざる自由の地位に立ち、社会の大なる監査役として為すべきを為し、言ふべきを言ふを最も適当なりと思考すとて、出馬には両氏共、反対意見を開陳せり。

                    【メモ】
                    大隈重信への首相奏薦に関する記事、二題。
                    宰相のポストが貧乏くじのような扱いである。


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