続・江戸の話 六十二


 今回も、『守貞謾稿』貨幣篇。金銀の貸し借り、中でも「すがね」の話である。

 そもそも貨幣経済が成立していない場合は別として、資金需要があれば、それに応じて貸し付けが事業として生起する。武士相手であれば、多寡はともかく俸禄米による安定した収入はあるから、これを担保として金を貸した。商人同士の場合には、先に見たように得意先で無ければ貸さなかったり、保証人を立てたりと、これもまた相応の手続きがある。
 では、そうしたものを持たない庶民はどうしたか。庶民には資金需要が無い、などということは無い。必然、それに応じた貸し付けの形態が現れた。それが、今回話題とする「すがね」である。
「三都とも質せずして金を貸し借るをすがねと云素金素銀也」
とある。「すがね」は「素金」「素銀」と書く。「質せずして金を貸し借」りすることを指す。まず「素銀」については、
「素銀の利息京坂にては元銀一貫目に一月息若干と云元銀一貫目に月息銀十匁を一分の利と云一分は乃ち百分の一也元銀一貫目に九匁八匁を九朱の利八朱の利と云八朱以下皆倣之元銀一貫目に月収十五匁を一半の利と云乃一分半の中略也一半以上の月息を禁とす 素銀月息多くは七八朱也一分を貴息五六朱を賤息とす俗に貴息を高利と云賤息を安利と云両替屋などより日息を以て貸すには大概元銀一貫目に息銭五分也乃月息の一分半に当る也日息俗に日分と云ひひぶと訓ず或は日廻しと云」
とある。「元銀一貫目に月息銀十匁」の場合、銀1貫は1000匁であるから、月利で1%。これを「一分の利」と言う。同様に「九朱の利」は0.9%、「八朱の利」は0.8%。「一半の利」は「一分半の利」の「分」字を略したもので、1.5%。0.7〜0.8%であることが多かったようで、それを基準として、利が低ければ賤息・安利、それより高ければ貴息・高利と言われた。これは月利での話であるが、「日分(ひぶ)」すなわち一日当たりの利を定めて貸し付ける場合もあったという。この場合、大抵日利0.05%、月利になおすと1.5%に相当する。では、金を中心とする江戸ではどうであったか。江戸の「素金」については、
「江戸にては素金の月息元金廿五両に若干と云元金二十五両に月息金一分を普通とす乃ち京坂一分の息に当る 天保府命前は二十五両息一分より貴息のものあり府命以来元金二十五両に月息金一分以上を禁ず又従来江戸にては百千両の証書にも又五両十両の小金にも必らず利息を云には元金廿五両一分或は三十両一分などヽ称する也今世元金二十五両月息一分を貴息とし大略三四十両月息金一分を賤息とす」
とある。1両は4分であるから、これを踏まえて換算しなければならないが、月利は1%程度が多かったようだ。とは言っても、幕府の命令でそれ以上の高利は禁止されていた。それ故か、月利1%を貴息、それより低い0.6〜0.8%程度のものを賤息と言ったという。
 ただし、前述のような公定の利率以外での貸し付けも行われており、
「又京坂にて「たかぶかし」高分貸也江戸にて「かうりがし」高利貸と称して制外の貴息を採る子銭家あり 江戸の高利貸元金十五両或は十両或は月五両に息金一分也」
とある。「たかぶかし」「かうりがし」である。月利は、高い場合には5%であったという。こうした子銭家には多様なものがあった。以下、そうした例を見て行こう。
 まずは「座頭金」。
「坐頭金と云あり京坂には無之歟江戸には専ら有之座頭は盲人の官ある者を云此座頭の業は琴及三絃の師或は鍼治の術を専とし兼て高息の小金を貸す也蓋座頭皆各然るに非ず不行之も多し息は大略前に同じ或は元金三両に月息一分もあり」
とある。座頭金(盲金)は、京都大阪にはなく江戸で行われたもののようで、その名称の通り座頭が貸金を営む。月利8%を越えることもあったようである。
 次ぎに、「日なし貸」。
「日なし貸と云あり譬ば今日元金一両を貸す此銭大略六貫五百文也翌日より六十五日の間毎日銭百文を還す日々になしかへす故に日なしかしと云蓋息は始めに除之金一両の証文にて二朱の息を除き其実三分二朱を貸す也此息大略元金二両月息一分より僅に賤息に当る蓋元金の多寡息の貴賤還法の日数等種々あれども大概准之」
とある。「日々になし(済し)かへす(返す)」から「日なし」である。証文上は1両借りたことにし、実際には三分二朱を渡すなど、利息分を予め差し引いて貸し付けたものらしい。月利は12.5%よりは低いものであったようである。
 次ぎに「烏(からす)金」。
「烏金と云あり是は一日夜を貸す也今日貸て明日還之也夜明け烏鳴けば必ず還すを法とす故にからすがねと云息日なしよりも貴し借用之する者定りなしと雖芝居茶屋引手茶屋及び食店等事に臨で一時を便んが為に借之」
とあり、一夜明けて烏が鳴くと返済しなければならない。「ひなし金」より更に高利であったという。特に決まりがあるわけではないが、茶屋や飲食店などが臨時に借りることが多かったようである。
 今回最後に紹介するのは「百一文」。
「百一文と云あり晨に銭百文を借り夕べに百一文を還す故に百一文と云一二百文より大概一貫文を限りとす諸物を担売の徒は晨に四五百文をかりて或菜蔬其他小価の物を担ひ巡りて一日の費を得て晩に四五文を加へて還之こと難きに非ず而も元金三分に月息金一分より僅に賤息に当る 烏金及百一文は証書を用ひず受合人と云て口証の人ある也」
とある。朝に100文を借り、夕に101文を返すから「百一文」である。一日あたり1%、月利になおすと30%。「元金三分に月息金一分」、つまり月利33%よりは、僅かばかり利率は低い。担売などの小売業者が利用したようで、朝に金を借り資金とし、商売を終えた夕刻に返済をしたもののようである。

 長文になったので、今回はこれまで。次回も「すがね」の話を続けよう。



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    続・江戸の話 六十一


     今回も、『守貞謾稿』から江戸の両替店の話を紹介しよう。前回に、幕府による規制の有無で変動はあったものの、江戸には六百余戸の両替店があったことは、既に触れた。これらの両替店は、
    「右六百余戸を一番より△番に至り頒て△党とす故に是を番組両替と云其中天保以前取引替と称す者のみ四日市茶店にて毎夜会て銭を売買す天保府命後止之再行以来常盤橋外の茶店亀の宅に集る」
    とあり、○○党のように組み分けされており、番組両替とも言われた。天保年間の府命以前は「取引替」と称する両替店のみが茶屋に集会し売買をしていたが、府命発布以により一時止み、廃止後には別の茶店で会合したものらしい。
     こうした江戸の両替店は、
    「右の番組両替は銭売買を専とし又専ら一業とする者稀にして多くは質店或酒醤或は紙或は諸品の店にて両替を兼業とする者多し又金銀両替も行はざるには非ず又京坂為替等を行ふ店も稀に有之なり」
    とあり、銭の売買だけを専業とすることは稀で、質屋・酒醤油・紙等の商いと兼業した。京都大阪と比して概ね小規模であったようである。「江戸にては市民余財ある者も兌舗に托せず自家に蓄へ又振手形の行も無之銀幣を唱へざる故に此売買なきを以て大坂の昌るに及ばず」ともあり、江戸人達の蓄財観の影響も、無いではなかろう。勿論、京都大阪と同様金銀の両替を行う者もいたし、三都間での為替取引を担う者も、稀には存在したようである。
    「又公役には幕府金蔵の銭事を与る又町奉行所等よりも銭事に役す会所は今も両替町に在之 又三井氏越後屋住友氏和泉屋 中井氏播磨屋 竹原氏以上四戸を本両替と称し六百余戸の外にて各豪富両替一業の者也是は幕府の金銀事に役す」
    とあり、中には幕府の金蔵に関わる者、奉行所の銭事に関わる者もいた。こうした公的な事業に関わる者の中でも、三井氏・住友氏・中井氏・竹原氏の四戸は「本両替」と称され、江戸六百戸の両替店とは別枠の存在で、両替のみを業とし、兼業はしていなかったようである。

     さて、前回引いた通り、両替店は「所詮始めは兌銭俗に云きりちんを以て少金を換へ漸くに今の盛行に至るならん」ものであるという。ここで、その「兌銭」について、今少し詳しく見て行こう。
    「兌銭を俗にはきりちんと云切賃也或はうちヽんと云打賃也昔はきりちんにて大を小に換る也譬へば小判を一分判にかゆるには小判を出す方より切賃を添る也大を小に切るの意にて切賃と云也 元禄中小判一両の切賃八文より十二文許 元文中は三四十文となる如此の切賃は大は不便にて小は便に宜き故也」
    とある。「兌銭」は、両替の手数料の類である。これを「切賃(きりちん)」あるいは「打賃(うちヽん)」と言う。「切賃」とは「大を小に切るの意」である由で、価値の高い貨幣を複数の低い貨幣に両替する際の手数料である。例えば小判を一分金4枚に替えるには、切賃を支払った。高額の貨幣は使用に不便であるから、小額の貨幣に交換するという需要が生じ、それ故に商いとして成立したもの、ということになろう。しかしながら、
    「今も此切賃ありといへども稀にて兌銭を出すこと昔に反し大を出す方に兌銭を取る 又金幣を出す方に取之金に准ず銀幣の方には兌銭を添る譬へば今の額或は大白と云一分銀を出し小判に換るには百両に二三匁或五七匁を添る也此謂は銀幣にて金に准ずものは平日専用となり世上に多く小判一分判及五両判等の真の金幣は富者の貯蓄に宜き故也然れども臘月など金事繁き日は貯金世上に出る故に此兌銭下直にて春に至れば忽ち本に復す」
    とあり、守貞の頃になると、高額の貨幣に両替する、あるいは銀を金貨に両替する際に手数料を取るようになった。例えば一分銀を小判に両替するには、百両につき銀二〜七匁の手数料がかかる。こうした変化は、銀が平常に用いられ流通も多く、これとは反対に金貨は貯蓄に用いられ流通が少ないことに因る。もっとも、年末になると、支払いの都合から蓄えられていた金貨の流通が増えた、結果として、手数料は一時的に値下がりしたようである。してみると、江戸の人々は、利便性だけを理由として手数料を支払って両替したのではなく、支払ってでも両替する必要のある場合もあったのであろう。
    「右の如き大小を云ず銀を金に代る等の兌銭を打賃と云也金を好むことは其貴きは素よりにて蓄にかさ高ならず他国に贈るに飛脚賃下直也」
    とあり、金貨への両替の際の手数料は、「切賃」ではなく「打賃」と呼ばれた。手数料を払ってまで金に両替する理由は、金の方が価値が高いからである。先に挙げた蓄財においても、体積が少ない方が容易である。また、飛脚を用いて遠隔地に送る場合でも、体積が少ない方が安価であるのは、道理であろう。

     以上、両替店の記事は概ね紹介し終えた。次回も、貨幣篇の紹介を続けよう。


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